足利尊氏

建武の新政は成ったかのように見えたが、天皇・公家を中心とする政(まつりごと)を目指す後醍醐天皇と、自分は武家の棟梁として公武合体の政(まつりごと)を行おうとする足利尊氏とは同床異夢の幻想でしかなかった。

旧幕府軍より奪還した鎌倉に留まって東国の統治を磐石なものにしようと、天皇の許可無く天皇の専権事項であった土地を武家に恩賞として与えていた尊氏を、後醍醐天皇は朝敵と見なし追討の命を下した。

天皇の命を受けた新田義貞が進軍し、矢作(愛知県岡崎市)の戦いで弟の直義の身が危ういという報告が届いても、箱根まで攻め込まれて来ても、もとどりを切ってまで尊氏は逡巡していた。

自らが戦うことで、朝敵の名を被ることを極端に恐れていたのである。

尊氏は追いつめられ、やっと君側(くんそく)の奸(かん)・義貞を打つということで出陣を決意する。

尊氏立つとの知らせを受けた地方の武士達は武家の棟梁である尊氏の旗のもとへ集まった。

建武三年(1336)一月、尊氏軍は京都に入った。

それまで快進撃を続けていた尊氏であったが、上洛してみて改めて戦いに大義が無いことを気づかされた。

天皇に弓を引いている形となっていることで、これでは武家政権の再興を図るなどとても許されないとの思いであった。

頼朝がそうしたように公家の力の強い京都より鎌倉に戻って旗を立てるべきではないかとの考え方もあったが、尊氏を追ってきた北畠(きたばたけ)親房(ちかふさ)や楠(くすの)木(き)正成(まさしげ)の軍勢に追い立てられ、亀岡市の篠村八幡宮に退いた。

ここは三年前(1333)山陰に進軍する途中、鎌倉幕府に反旗を翻し反転して柳の木に源氏の白旗を掲げて兵を集め、六波羅探題に攻め入った場所でもあった。

尊氏はこのことを憧れていた後醍醐天皇に感じてもらいたかった。

積極的に戦う意志を持てない尊氏は、二月丹波路からさらに後退して明石の海岸に出た。

その途中で「うち向う方はあかしの浦ながら尚(まだ)晴れやらぬ わが思いかな」と詠んでいるが、それでもまだ尊氏は、割り切れずに後醍醐天皇が自分を武士の棟梁として正統化してくれることを期待し待っていたのである。

晴れやらぬ思いの中で、ついに室津の港から西に退き、船の人となった。

しかし、尊氏は退きながらも戦う大義を得るための策をめぐらせていた。

密かに持明院統の光厳上皇に足利軍が官軍であるとの院宣を拝領出来るよう手を打っていたのであった。

さらに西下するのにあたって、播磨には後醍醐天皇を見限って尊氏軍に加担した赤松円心、備前には松田氏、讃岐には細川氏、備中には足利一族の重臣である今川三郎・四郎の兄弟を布陣し、兄弟にはさらに尾道浦に先乗りさせ、光明寺(尾道市土堂町)に陣取って地元の有力者との調整をさせた。

又、後醍醐新政権のもとで没収された武士の所領は元に戻すとの「元弘没収地返付令」を打ち出し、安芸の小早川一族に対しても自領を保障することを約束することで激を飛ばした。

この為、全国の多くの武士が尊氏を支持し、尊氏の旗のもとへ帰属させることとなった。

西に退きながらも尊氏の信望は増大していった。

嘉永元年(1169)、大田庄の荘園の年貢米の倉敷地(積出港)として出発した尾道浦であったが、当時既に物流の基地として飛躍的に発展していた。

その尾道浦では高野山領の大田庄の預所・雑掌として一国の守護と並ぶ権勢を誇っていた和泉法眼は問丸としても紀州、奈良、京都、堺などと交易を行い社会情勢にも明るかった。

その和泉法眼の後ろ盾もあって、尾道浦を舞台にして活躍していた一族の富豪道(どう)蓮(れん)・道性(どうしょう)は若いながらも卓越した海上輸送能力と経済力をもって、その勢力は瀬戸内海全域に及んでいた。

それだけに彼らは世の中の流れにも極めて敏感で広い目を持っていた。

負け戦で退いてきた尊氏の「御印し」をと考えてもおかしくはない状況であったが、この一族達が尊氏支持についたのも尊氏にとって願ってもないことであった。

特に関東武士である足利軍にとって、激しく複雑な潮流や岩礁などの障害物の多い瀬戸内海海域での航行、春から夏にかけて発生する濃霧の中での航行、豪族や海賊対策、島嶼(とうしょ)部での海戦、又、兵站(へいたん)の確保など西下するにあたって、様々な厄介な課題を解決する必要があった。

建武三年(1336)二月十四日、鞆津(広島県福山市)で宿舎としていた小松寺の尊氏に吉報が届いた。

尊氏が待ち望んでいた光厳上皇の院宣が醍醐寺の三宝院賢(けん)俊(しゅん)によって奉じられ、尊氏に手渡された。

後醍醐天皇とは対立関係にあった光厳上皇であったが、兎も角これにより尊氏は晴れて朝敵という汚名をそそぎ、足利軍が正統化されたことを天下に知らしめることのお墨付きを得た。

今すぐにでも引き返して正成をはじめとする賊軍と戦うということも考えられたが、尊氏はこの状況の中で次にどのような行動に打って出るべきかを合議するため、二月十七日御座船に錦の御旗を押し立て尾道浦に入港した。

その時源氏の守り神である一羽の白い鳩が一行を浄土寺まで道案内をしたとの話も残されている。

尾道浦への寄港は、支持を表明してくれた高野山領の請所であった和泉法眼、道蓮・道性一族や浄土寺の空教和尚へのお礼の意味もあった。

尾道浦の道蓮・道性が嘉暦二年(1327)に再建立した浄土寺観音堂で足利軍の幹部を集め軍議を開いた。

議論は伯仲したが、出された結論はまずは西日本最大の反足利勢力である九州の菊池武敏を叩こうということであった。

足利軍が官軍として、又、尊氏が清和源氏の嫡流・武士の棟梁として天下に覇をとなえるためには、今、京都に攻め入ることよりもまず菊池軍を打ち破って、さらに尊氏支持勢力の結集、拡大を図っておくことの方を優先すべきであるということであった。

この浄土寺会議で標的が明らかになり、足利軍の士気は一層高まった。

その後、浄土寺において空教和尚が導師となって、足利軍の戦勝祈願が行われた。

尊氏は浄土寺に備後国の得良郷(加茂郡大和町)の地頭職を寄進し、因島(尾道市因島)の地頭職も安堵した。

二月十九日、尾道浦を出港する際には、吉和浦(尾道市吉和)の漁師船団が九州までの水先案内役として西下を助けた。

この頃、楠木正成は後醍醐天皇に「新田義貞を捨て尊氏と和睦し、公武合体の政(まつりごと)をすべし」との進言をしているが、勝ちいくさに酔いしれていた天皇には、一笑に付されてしまう。

尊氏と正成とは目指す方向は同じであったのである。

しかし、武士は公家の警護役程度ぐらいに考えていた天皇にとって全く考えられない話であった。

浄土寺本堂

二月二十二日、長門の国赤間の関に着船したが、鎌倉幕府という武家政権を開いた源頼朝に憧れを持っていた尊氏が源平最終合戦のこの地で、今度は自分が「幕府を開く」ということについて現実味を帯びて思い描いていたのかもしれない。

ときに尊氏三十二歳である。

九州に入った尊氏は三月二日、筑前(福岡県)の多々良(たたらが)浜(はま)で菊池軍に勝利し、四月三日には東上を開始している。

既に尊氏に合力する船の数は七千隻にも及んでいた。

東上の途中、主力部隊は布刈瀬戸を抜け鞆津へ船を進めたが、御座船の尊氏は五月五日、尾道水道より再び浄土寺に入った。

そして、浄土寺の観音堂で戦勝祈願の法楽和歌の会を催した。

観音経の偈(げ)文(ぶん)をさぐって和歌に祈りを託した。

尊氏は「弘誓深如海」の題で「わだつみの ふかきちかいの あまねさに たのみをかくる のりのふねかな」 (この御座船には多くの願い事を積み込んでいるが、この海の深さと同じぐらい観音様を深く深く信仰しているのだから、きっとこの御座船はその願い事を成就してくれる観音様の船に違いない) と余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)であった。

現在、浄土寺観音堂には尊氏が着席していた本堂(国宝)右側の脇陣を足利尊氏参籠(さんろう)の間と呼んでいる。

又、浄土寺には尊氏の花押が押された観音経偈三十三首の法楽和歌が残されている。

吉和太鼓踊り

尾道浦を出発するのにあたって、尊氏は浄土寺の観音堂の扉の戸板を戦いに備えて矢玉よけ用の盾板として外させ、御座船に積み込んだ。

観音様がきっと守って下さるとの観音信仰の深さのあらわれである。

又、尊氏は水先案内をしてくれた吉和浦の人々の漁業権を認可して謝意を示したことで、吉和の人々は感激して戦勝祈願にと船端を叩き、鉦や太鼓を打って、鞆の沖合いまで足利軍を見送った。

この時吉和の漁民が踊ったと伝えられる踊りが、現在広島県の無形民族文化財「吉和太鼓踊り」として隔年の八月十八日に浄土寺に奉納されている。

尊氏に従って西下し、多々良浜の戦いで大功をたてた備後国椙原保の豪族・杉(すぎ)原信(はらのぶ)平(ひら)、為(ため)平(ひら)兄弟に対し、尊氏は手づから信平の母衣に「西国一番の働き比類なきものなり」と記し、その軍功によって備後国木梨庄十三箇村(小原、梶山田、木梨、市原、白江、三成、猪子迫、栗原、吉和、木原、久山田、後地、尾道)を恩賞として与えている。

兄弟はこの後も足利軍と共に行動して湊川の戦いに参戦し、さらに京都にも出陣して数々の勲功を立てている。

延元二年(1337)木梨(尾道市木之庄町)に鷲尾山城を築いてこれに拠った。

尾道浦の守護代の役も務め、高野山領の年貢米の請所となっていた浄土寺の外護にもあたっている。

足利軍は、鞆津より海陸二手に分かれて進軍を開始した。

五月二十五日、摂津(兵庫県)の湊川で楠木正成軍を討ち果たし、新田義貞も敗走させ、五月末には上洛している。

建武三年(1336)十一月、尊氏は後醍醐天皇を譲位させて、持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目を制定、武家政治を復活させた。

一方、後醍醐天皇が密かに吉野に移ったことで南北朝の対峙が始まることとなった。

この後醍醐天皇が吉野に走ったことについて尊氏は「天下は落ち着くべきところに落ち着くものだ。」とどこか世を覚めた目で俯瞰(ふかん)している。

尊氏にとって絶頂期というべきこの頃、尊氏は清水寺に(京都市東山区)に「もし自分にこの世で与えられる果報があるとしたなら、その果報は全て弟・直義に譲って欲しい。何(なに)卒(とぞ)直義の身が安穏であるよう御加護を賜りたい。」との願文を納めている。

おおらかで欲の無いこんなところが、多くの武将を惹きつけてきたのであろう。

暦応元年(1338)八月、光明天皇から尊氏はやっと征夷大将軍に任ぜられ、二条高倉に幕府を開いた。

一方、吉野に逃れた後醍醐天皇は「ここにても雲井の桜咲きにけりただかりそめの宿と思うに」と都に帰還したいが果たせず、ついに「玉(み)骨(こつ)は たとえ南山の苔に埋(うずも)るとも 魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)(宮城)の天を 望まんと思う」と遺言に無念さ、悔しさを滲ませながら暦応二年(1339)八月十六日吉野で崩御された。

後醍醐天皇の崩御に対して尊氏は、当時の仏教界の第一人者であった夢窓国師の提案もあって天皇の菩提を弔う為、光厳上皇の院宣を受けて嵯峨野に天龍寺を建立する。

天龍寺の正式名称は「霊(れい)亀山(きざん)天龍資聖禅寺」であるが「天龍」という言葉は、弟の直義が大堰(おおい)川(がわ)(渡月橋より上流)に巨大な金の龍が天に昇る夢を見たことによるとされ、「資聖」というのは後醍醐天皇の怨念を鎮め助け奉(たてまつ)るとの意味である。

もともとこの地には南禅寺を開いた大覚寺統(南朝)の亀山天皇の離宮があった場所で条件が整っていた。

幕府はこの造営資金を得る為、貿易船「天龍寺船」を元に送り出している。

尾道浦はこの中継基地として大いに賑わった。

さらに尊氏は「怨(おん)親(しん)平等(びょうどう)」(敵味方の区別は無い)との夢窓国師の教えに従い、国家の平安と敵・味方を問わず北条氏討伐以来の戦乱で亡くなった人々の霊を弔うべく、全国に一寺一塔(安国寺と利生塔(りしょうとう))を建立した。

備後国の安国寺は鞆津に、利生塔は浄土寺領に建立した。

(この利生塔は、現在の尾道市生涯学習センター(元筒湯小学校跡地)のグランドの中央あたりに五重塔の姿でそびえたっていた) 尊氏は、貞和元年(1345)この建立費として櫃(ひつ)田(た)村(三次市君田)の地頭職を浄土寺に寄進している。

この塔は江戸時代初期に焼失してしまうが、浄土寺にはこの塔に取り付けられていたという鉄製の燈(とう)籠(ろう)が二基残っている。

又、弟の直義が国家と民衆の安寧を願って利生塔に寄進したという金銅製宝珠形舎利容器には、京都の東寺(京都市南区)にあった仏舎利(釈迦の骨)が一粒入れられて納められている。

浄土寺にはこの他、尊氏が母の菩提を弔う為に書かせたという「如意輪観音画像」や陣中肌身に付けていた「陣中念持仏」なども奉納されている。

又、尊氏は五重塔の塔婆料所として金丸名(かねまるみょう)(福山市新市町)・上山村(府中市)の地頭職と草村(府中市新市村)の公(く)文(もん)職(荘園の事務を司り、年貢の徴収などを行う部署)を浄土寺に寄進し、直義は浄土寺領内ならびに寺辺での殺生禁断を命じるなど浄土寺を特別に外護している。

この尾道浦の外護の目的は、足利軍大勝利のきっかけとなった尾道浦と尾道浦の人々への論功だけでなく、室町幕府の財政の基盤を海外貿易に求めようと、当時、既に交易港として実績のあった尾道浦を幕府認可の交易船団の重要な拠点とすることにあったのである。

その後室町幕府という組織を構築していく中で、弟直義や盟友高師直(こうのもろなお)と身内で激しく対立するようになっていく。

こうした幕府の分裂に乗じて、南朝側が様々な謀略をめぐらし、政治の混迷の度を深くしていった。

状況に順応することの中から政治の方向を汲み取ることにかけて、特異な才能を発揮した尊氏であったが、この混乱の中ではもはや手の打ちようがなかった。

延文三年(1358)尊氏は背中に出来た悪性の腫物のために四月三十日に五十四歳の生涯を閉じた。

遺骸は京都衣笠山の麓の等持寺(京都市北区等持院北町)に葬られた。

現在、等持寺は尊氏の法名をとって等持院となっている。

この寺の境内に樹齢四百年になる椿の大木があるが、この老木に咲いて緑の苔の上に落ちている赤い椿の花に「控えめな美しさ」という花言葉が尊氏の生き方そのもののようでもあり、尊氏の見果てぬ夢のようにも感じられる。

浄土寺(尾道市東久保町)

浄土寺の歴史は古く推古天皇の616年聖徳太子の草創と言われている。

正式名称は「転法輪山大乗律院荘厳浄土寺」という。

なにやら修験道場のようであるが、現に奥の院に至る山道には岩に取り付けた鎖場もある。

江戸時代になって京都の泉涌寺(せんにゅうじ)(京都市東山区泉涌寺山内町)に属し、現在に至っている。

文治二年(1186)大田庄の荘園が高野山領になると、浄土寺は後白河法皇の勅願所となっている。

鎌倉時代の終わり教線を広めようと尾道浦に滞在していた律師・叡尊の弟子である定証(じょうしょう)上人が、当時荒れ寺となっていた浄土寺の再興を里人から懇願され、尾道浦の富豪・光阿弥陀仏の援助を得て、嘉永二年(1304)落慶法要を行っている。

ところが、正中二年(1325)大火により、堂宇をことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまったが、嘉暦二年(1327)、尾道浦の豪商道蓮・道性夫婦によって観音堂(現在・本堂、国宝)、嘉暦三年(1328)には多宝塔(国宝)、暦応二年(1339)には利生塔(五重塔・現在焼失)、貞和元年(1345)には阿弥陀堂(重文)等々の堂塔が建ち並び、備後国随一の寺院として人心を掌握するところとなって今日に至っている。

現在浄土寺には尊氏の供養塔と伝えられている宝筐印塔(ほうぎょういんとう) (墓碑塔)と弟直義の供養塔と言われる五輪塔が仲良く並んで立っている。

「尊氏の供養塔と伝えられている宝筐印塔は高さが百九十センチで、塔身の四方に金剛界の四仏の種字を刻してあり、基礎・基壇の間に反花座(かえりばなざ)を設け、基礎の側面には大きく見事な格(こう)狭間(ざま)が作られている。南北朝時代における中国地方の宝筐印塔の代表作である。」(国宝の寺尾道浄土寺より)

又、浄土寺の前住職・小林海鴨師は、先年京都泉涌寺の長老(管長)もされていた。

等持院(京都市北区等持院北町)

臨済宗天龍寺派。山号は万年山。本尊は釈迦牟尼仏。

暦応四年(1341)足利尊氏が夢窓疎石を開山に請じて衣笠山南麓に創建した。

尊氏は戦乱が治まり天下が自分の手に帰したならば、必ず三つの寺院を建て、国家の安寧を祈るつもりであると語っていたが、不安定な状態が続き、なかなか三つの寺を建てられそうになかった。

そこで尊氏は、禅僧・古先印元(こせんいんげん)を開山として建てたのがこの等持寺で、寺号には三つの「寺」という字が入っていることから、これで願いを叶えることが出来たと本人も喜んだと言われている。

延文三年(1358)尊氏の法名「等持院仁山妙義」から寺名も等持寺から等持院と改められた。

歴代の足利将軍の廟所に相応しく十刹の第一位となり隆盛したが、幾度かの災禍にあい現在の伽藍は文政元年(1818)に建立されたものが中心となっている。(等持院由緒書による)

足利尊氏墓所(等持院)

霊光殿には尊氏の念持仏とされた地蔵尊を中心に右に達磨大師と左に夢窓疎石の像が両脇に祀られ、尊氏以下歴代足利将軍の木造(五代と十四代を除く)が安置されている。

等持院殿(尊氏)の木造の正面に、何故か四十二歳の徳川家康公の木造が置かれている。六代将軍義教の神経質そうなお顔も印象的である。

方丈北側の池全体が蓮の形をした芙蓉池と心字池との間に尊氏の墓である宝筐印塔(ほうぎょういんとう)がある。

塔の台座は四面に立派な格(こう)狭間(ざま)があり、宝(ほう)瓶(びょう)に蓮(れん)花(げ)を挿した紋様があって室町時代の形を示している。

余談であるが、現在アメリカのメトロポリタン美術館にはかって尊氏が篠村八幡宮に奉納したという鎧が収納されている。

その鎧の板の部分には「不動明王」が描かれている。

「不動明王」は戦勝祈願の印とされているが、むしろ様々な葛藤を抱えながら生き抜いてきた尊氏の不動明王にすがる思いが感じられてならない。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

大人な遊び方ができる尾道において「尾道に来たら、ココだけは行って欲しい!」という、管理にイチオシの観光スポットを紹介しています。詳しくはこちらのページを読んでみてください。
>>管理にオススメの観光スポット