頼山陽

文政十二年(1829)二月、四十九歳の頼山陽は尾道出身で弟子の宮原節庵を伴い三次に向け、京都を出発した。

そして宮原とは尼崎で別れた。

今回三次を訪ねた後は広島に入り母梅颸(ばいし)を伴って四回目となる京都旅行を楽しんでもらう予定であった。

二月十日に神辺に着き、十四日には三次の叔父杏(きょう)坪(へい)を訪ねた。

既に山陽は「日本外史」「日本楽府」を完成させており、後(あと)は歴代天皇を綴った「日本政記」や政治全般にわたる意見書というべき「通議」を執筆したいと考えていた。

そこで七十四歳の今に至るまで行政官を勤め、今は三次奉行専任となって群務を務めている叔父に郡政のあり方を訊ね、民の生活が安定する為の政(まつりごと)とはいかなるものなのかの提言を求めようと思っていた。

杏坪は、兄の春水、春風と共に京都下鴨神社の荘園として開けた竹原出身の頼三兄弟として、そろって名をあげ「三頼」と呼ばれていた一人として、江戸への単身赴任の多かった兄の春水に代わって山陽の父親役を務め支え続けてきてくれた。

春水、春風も今は既に亡く杏坪にとっても山陽にとってもお互いに心の支えともいうべき存在になっていた。

呑んで酔いの回った杏坪は、きまって頼家の遠祖頼兼家は戦国時代に小早川隆景の家臣であったことや、春水、春風、杏坪の三兄弟の話から、毛利元就の三兄弟、隆元、元春、隆景の話を繰り広げた。

頼山陽像(尾道千光寺)

十七日、山陽は帰路の途中で吉田郡山(よしだこおりやま)の麓にある毛利元就の墓に立ち寄って詣でた。

十八日に広島の杉(すぎ)ノ(の)木(き)小路(しょうじ)(現在、広島市中区袋町の頼山陽史跡資料館)の屋敷に着いた。

父春水の十三回忌の法要を済ませると三月七日午後、梅颸を伴って京橋川より船で京に向け広島を発った。

この広島への帰省の前の一月十三日に京都から尾道の橋本(はしもと)竹下(ちっか)宛に手紙を送っていた。

それは「この春は父春水十三年忌の為広島へ帰省するが、帰京の途中尾道に寄り、お前さんがその後手に入れた古書画を鑑賞したいと思っている。その時の為に煎茶用の道具を一式入れた茶籃(ちゃらん)を送り届けておく。宇治の「一(ひと)時雨(しぐれ)」という茶葉と京の蒸菓子「村雨(むらさめ)」も添えておく。もともとお前さんは私の嫌いな抹茶派であるので煎茶の入れ方も伝授しておくが、清らかで上品な趣のあるこの味を知らぬは田舎者である。」と連絡をしている。

それにもう一言、尾道の茶菓は田舎流であるとも書き送っている。(頼山陽書翰集「煎茶の秘訣」より)

こういった講釈を、食通で酒好きの山陽は酒の銘柄だけでなく、酒器や酒の燗の仕方から飲み方に至るまで色々なことに自分なりの流儀があり、こだわって他人にも事細やかに説明をしている。

ただ、人がいやな気分になるようなことも黙っておれなくて、ついつい喋ってしまう。

こんなところがいかにも山陽らしい。

このような山陽に対し父春水は眉をひそめ、小言を言っていたが、どうも生まれ持っての性格というのは治らないようである。

尾道には三月十日に着いた。

当時の尾道は西廻りの航路が開かれ、北前船が頻繁に出入りし、物流拠点として港は活気に溢れていた。

その経済活動の発展と共に町には財を成す多くの豪商が出現していた。

渡(おり)橋(はし)眞兵衛もその一人で大紺屋という屋号で造酒業や各地から商品の受託や仕入れを行う問屋商人として財を成していた。

山陽の弟子となった宮原節庵は眞兵衛の五男である。

その日は渡橋家に寄り、竹下を呼び寄せ竹下の持って来た書画などを煎茶を飲みながら鑑賞した。

次の日は尾道から海路で東上したが、本来であればもう少し早く着く予定であったが東風が強かったため、淀に着いたのは十八日になってしまった。

「折角の桜の見頃を外してしまっては心残りじゃ」との山陽の提案で、淀から直接嵯峨に回って桜見物を楽しんだ。

三月二十日は平野神社や御室の桜を見てまわり、水西荘(京都市上京区東三本木通丸太町上ル)についた時にはすっかり暗くなっていた。

水西荘は入母屋造・茅葺の平屋建てで、内部は四畳半の書斎と二畳の待室と水屋の簡素なものであるが、「日本外史」「日本政記」「通議」の三大著作をここで完成させている。

そしてもう三月二十五日には山陽は、梅颸、妻の梨(り)影(え)、息子の又蔵(支峰)を伴って伊勢神宮へと出発した。

今年で七十歳となる梅颸は山陽にこれまで三度、京都や京都近郊を案内してもらっていたが、伊勢方面は始めての旅であったので機嫌が良かった。

しかし、梨影にとってはこの家計を圧迫するいつもの山陽の大盤振る舞いに、もう少し性格を丸くして、うまく他の人とつきあって安定した生活を考えて欲しいと愚痴の一つも言いたいところであったが、又蔵と一緒に伊勢まで旅行に連れてきてもらえたことでやはりそれ以上に嬉しさを隠せなかった。

二人は伊勢神宮の参拝もそこそこに土産屋で買物に夢中であった。

水西荘(京都市上京区東三本木)

伊勢から帰っても相変わらず水西荘には多くの来客があった。
そしてきまって酒盛りが始まった。

書斎の障子を開ければ、最高峰の比叡山から南の稲荷山まで連なる東山三十六峰が柔らかでたおやかな稜線を見せている。

その東山が西日を受けて茜色になったかと思うと紫色に変わり、やがて黒い稜線を留めるまで刻一刻と表情を変えていく。

又、目の前の鴨川では水面から川底迄が比較的浅いので流れる水が川底の石で丸みを帯び、それが日に当たって白く光っている。

この山紫水明の頃合いを山陽は気に入っていた。

その号を三十六峰外史としているほどである。

芭蕉の門人の一人である服部(はっとり)嵐(らん)雪(せつ)はその姿を「布団着て寝たる姿や東山」と詠んでいる。

山陽自身も「ふとん着て寝たる姿は古めかし、起きて春めく知恩院、その楼門の夕ぐれに好いたお方に逢ひもせで、好かぬ客衆に呼び込まれ」という文句の「ひがし山」という端唄を作っている。

瀬戸内海を見て育った山陽には、やはりどこか「水辺」への憧れがあって、住むのであれば鴨川の近くにと考えて選んだ場所であった。

ここは現在、茅葺屋根の小さな庵が記念館(京都市上京区東三本木通丸太町上ル)として残っている。

多芸多才で快活であった梅颸は日々、水西荘を訪れる多くの文人墨客が交流する中に混じって、会話を楽しんだり歌を披露したりして始終ご機嫌であった。

梅颸は廃嫡したとはいえ我が息子がこのように京都で根を張って活躍している姿を見て感激し、気持ちが高揚してくるのを抑えることが出来なかった。

亡くなった夫にもこの姿を見てもらいたかったと思わず目頭が熱くなっていた。

今回の京都旅行では伊勢神宮参拝の他、山陽は母を伴って四月十九日には下鴨神社の御蔭祭、二十二日の葵祭り、五月六日には石山で蛍狩りをし、六月二十五日には大阪の天満宮の船渡りの神事を見物した。

又、中秋の八月十五日には琵琶湖に舟を出し月を眺めて楽しんだ。

母に喜んでもらいたくて、山陽は京阪の珍しいことや母が望んでいることは全て叶うように取り計らった。

いよいよ十月二十日、山陽は母を送って広島に帰ることにした。

伊丹には二十二日に着いた。

予め呼び出していた大阪に逗留していた豊後岡藩の田能村竹田も合流し、二十三日は伊丹「剣菱」の酒造元である坂上桐陰の案内で箕面の紅葉を楽しんだ。

その後坂上家に二泊し、竹田の絵を坂上に周旋した。

山陽は竹田の絵を「構図の取り方が良く、一本の草にさえ丈六の仏像と化すような勢いがある。

獅子が兎を捕らえる時は全力を用いると言うが、竹田の絵にはそんな迫力がある」(頼山陽「下巻」より)などと竹田の絵を高く評価して、皆にもそのことを吹聴していた。

遠縁の梶山立斎に送らせた梅颸の広島到着は十一月三日となり、約八ケ月もの旅となっていた。

山陽は尾道から船で一旦竹原に寄ってから又、尾道に入り、橋本竹下の屋敷に逗留した。

目的は「耶馬溪図巻」を描くことであった。

山陽は竹下にこの時のことを次のように書き残している。

「お前さんに耶馬渓図を描いて渡すと約束してからもう十年が経つが、やっと約束を果たすことが出来た。生憎原本が無いのでどこがどう違っているかは解からなかったが、そのときは気分が乗ってくるとやおら筆をとって輪郭を描いた。山の襞(ひだ)は描いては塗り、見直しては塗り直した。その最中にお前さんが時々様子を伺いにやって来ては話掛けるので、その都度制作の手を止めなくてはならなかった。そのため結局六日もかかってようやく描き終えた。折りたたんだ所に墨が少し染みてしまった。この絵は絹地の左から描き進めていったので、最後に絹地が無くなってしまい無理矢理絵を描き収めている。それ故に巻頭がなにか縮こまったような感じになっているのは残念なことである。記文や詩はその時原稿を持っていなかったので帰京してから書いたものである。しかしその分、文章をもう一度検討してみて加筆出来たので巻首の絵と末尾の文章のバランスをうまくとることが出来た。九州旅行をして耶馬溪を見てから早や十二年が経つが、あの時に心の中に留めた渓谷の美しさや山の青さは今思い出しても鮮やかに甦ってくる。この絵はお前さんの為に描いた。お前さんはこの気韻(きいん)を賞して形はこだわることはない。」(「耶馬溪図巻記」識語より)と竹下に書いて送っている。

竹下の為に描いたこの絵は山陽が九州を旅行した時に一目八景と言われる耶馬溪を案内してくれた豊後の末広(すえひろ)雲(うん)華(げ)に贈った作品より遥かに大きく幅三十四・二センチ、長さ十一㍍六六という大作であった。

どちらかというと絵は苦手の山陽であったが、この作品は気に入っていた。

この絵も技巧を超越した精神性の高さに真骨頂があることを自賛して、あえて竹下にことわっているのが山陽らしい。

橋本竹下は字を元吉といい、吉兵衛と通称した。

竹下はその号である。

三原の川口家に生まれ、尾道の豪商橋本家(加登灰屋)を継いでいた。

学問を好み詩文に秀でて、はじめ神辺の儒学者菅茶山に学び、その時塾頭であった山陽を知った。

山陽が京都に出るに従い、自らも京都に移ってその門下となった。

生涯を通じ山陽と親交を結んだだけでなく、竹田をはじめ当時の文人墨客等と深く交流し、パトロン的な支援にも努めた。

加登灰屋の商売でも石橋も叩かねば渡らないといった堅実型で質屋、金貸、両替など金融関係の他、新田・塩田開発などを手掛け、本家である灰屋を凌ぐまでに成長し、文政四年(1821)、尾道の戸数(土地も含む)六百九十五戸の内八十六戸が貸金の抵当流れなどで加登灰屋の所有となっている。

文政四年、その竹下が京都の山陽を訪ねた時のことを、山陽は菅茶山宛てに次のような手紙を送っている。

「竹下は私の借家の三畳の間に寝起きし、ご馳走は食べず朝夕茶漬け、香の物、煮豆、豆腐ばかりを食べ、祇園の花街にも遊びに行かず、ただひたすら私と書画や詩評を論じることのみを好み、酒の席には侍座しているだけで酒も飲まない。」(頼山陽書翰集「奇男子橋本竹下」より)と呆れてしまったという報告をしている。

山陽は学を好み、詩文に長じ、風流洒脱で君子人の風のあった竹下に心を許していた。

同時代の漢詩人で、共通の知人である梁川星巌も「竹下詩鈔」の序文に竹下を自分の友人としたうえで「その詩作は尽きることがない。さらにその歌辞は、雄であっても粗ではなく、厳であっても酷ではない。情の厚さと悲しみの情に溢れている。」(鷹橋明久氏訳)と述べている。

耶馬溪図巻を描き上げた後、山陽は竹下をはじめ尾道の文人達と一緒に千光寺山に登り、撫(ぶ)松(しょう)庵(あん)と山陽が名付けた草庵で酒を酌み交わし「千光寺に遊ぶ」と言う漢詩を詠んでいる。

磐石座(ばんじゃくざ)すべく松拠(まつよ)るべし
松翠欠(しょうすいか)くる処(ところ)海光露(かいこうあら)わる
六年(ろくねん)重(かさ)ねて来(きた)る千光寺(せんこうじ)
山紫水明(さんしすいめい)指顧(しこ)にあり
万瓦半(ばんかなか)ば暗(くら)くして帆影(はんえい)斜(ななめ)なり
相伝(あいつど)う残杯(ざんぱい)未(いま)だ傾(かた)け去(さ)らず
首(こうべ)を回(めぐ)らして苦(ねんごろ)に諸青年(しょせいねん)に嘱(しょく)す
記取(きしゅ)せよ先生(せんせい)かって酔(よ)いし処(ところ)と

山陽は京都では山紫水明の頃、鴨川を前にした水西荘で暮れ始める東山の山並みを眺めながら気の会った仲間と酒を飲んで語らい、尾道では弟子を引き連れて千光寺に登り、自ら名付けた撫松庵で「山紫水明指顧あり」と、東西に広がる鶴湾(尾道水道)を眺めながら、大好物の餅を頬張り、やはり美味しい酒を飲んでいる。

当時の尾道には豪商を中心とした風雅な茶園文化が根付いており、山陽は京都と同じような尾道の文化の熟成度を気に入って居心地が良かったのである。

十一月二十二日、山陽は帰京した。

春に三次の杏坪を訪ね、帰りに母を伴って京都に戻り、秋には母を広島に送って忙しく過ごしてきた。

何事にも全力で取り組まねばすまない性分がたたって山陽は急に咳き込むようになった。

山陽は年齢のせいだろうと深く気にも留めなかったが、労咳(肺結核)が確実に進行していたのであった。

撫松庵から見た尾道市街

山陽が十四歳の正月に詠んだ「偶作」という漢詩がある

十有三春秋
逝者巳如水
天地無始終
人生有生死
安得類古人
千載列青史

十四歳の正月と言っても十二月二十七日生まれの山陽は満十二歳を迎えたばかりである。

この年でこのような漢詩を作ったことも驚きであるが、この思いを持ち続けて実現させたのは、父春水、叔父の春風、杏坪の三兄弟の存在も大きかったが、やはり天賦の才能が備わっていたことと、幼い頃より寝食を忘れて軍記等を読んでいた本人の資質や努力、母親ゆずりの何事にも明るくおおらかで前向きな考え方が強い意志を生み、才能を開花させ、文化度の高かった京都での生活の中で化学反応といったようなものが引き起り、さらに高みに登ることになったのであろう。

本人は亡くなる直前迄筆を置こうとしなかった。

そこまで本人を突き動かしたものは、書きかけの「日本政記」がこの程度では納得がいかず中途半端のまま残していくのが残念で、更にその上のレベルに到達させようと尽きぬ執筆意欲の中で推敲(すいこう)を続けていたのであろう。

頼山陽墓所(長楽寺)

本人が意図したことなのかどうか、尊皇論を柱にした源平に始まり徳川に至るまでの武家の歴史を記した「日本外史」は幕末の激動の時代、尊皇・倒幕を鼓舞することになった。
嘉永六年(1853)、ペリー艦隊が浦賀に来航した。

この時の幕府老中は福山藩の阿部正弘であったが、ペリーを一旦本国に帰国させ、下々の者達にまで攘夷か開国かを諮問によって検討させている。

挙国一致の方策で乗り切ろうとする幕府の意思を打ち出そうとしていた。

しかしここまでは良いとしても結局、翌年(1854)、朝廷の勅許の無いままに開国し、日米和親条約を締結してしまった。

歴史にタラは禁句であるが、山陽がここまで生きていたら阿部正弘の行動には「名分」が無いとして、尊皇倒幕の旗頭となって祭り上げられていたかも知れない。

更に後年「日本外史」「日本政記」は第二次世界大戦での「神国日本」の精神的なバックボーンともなった。

さすがにここまでくると山陽は「おいおい、それは違うじゃろ」と言って、慌てて校正の為に机に向かったことだろう。

山陽の墓は祇園円山公園の枝垂桜(しだれざくら)を東に入った「長楽寺」という寺にある。

この長楽寺はあの壇ノ浦で一命を取りとめた安徳天皇の生母、建礼門院が僧、印(いん)誓(せい)について剃髪したところである。

この長楽寺本堂の右側の山道を登っていくと墓所になっており、その墓所の右側奥に山陽は眠っている。

そしてその正面にはやや小振りな梨影と、左側には息子の頼三樹三郎の墓が建てられている。

付記
現在尾道東高校の校庭に日本最古の交通標識と言われている頼山陽の筆になる「往来安全」と書かれた燈籠が建っている。

もともとは西国街道沿いの防地川付近にあったもので、天保年間に山陽と親交の深かった茶道薮内流の宗匠内海自得斎が、山陽に揮毫を依頼して建てたものである。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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