平安時代都(みやこ)では華麗なる王朝文化の花が咲いていた。

その中にあって宮廷歌人であった和泉式部は、別れた初恋の陸奥守橘(たちばなの)道(みち)貞(さだ)のことが忘れられず、どうにかして思いを断とうと、すがる思いで京都洛北の貴船神社にお参りした。

その時、御手洗川(貴船川)に飛び交う蛍を見て、「もの思へは　沢の蛍もわが身より　あくがれ出(い)ずる魂(たま)かとぞ見る」(あなたのことを思って悩んでいたら沢に飛ぶ蛍が私の体から抜け出した魂(たましい)ではないかと思えてしまう)という歌が、思わず口をついて出た。

すると貴船の神様が「おくやまに　たぎて落つる滝つ瀬の　玉ちるばかり物なおもひそ」(奥山の滝の水玉が飛び散るように(魂が飛び散ってしまうほど)そんなに思い悩んではいけない。きっと良い事もあるだろうから)という歌が返ってきたという話が後捨遺和歌集に収録されている。

現在も六月中頃からこの付近では蛍の乱舞が見られ、この場所にある大岩を「蛍岩」と呼び、蛍の名所となっている。

そして、ここから御手洗川に沿って本殿までの道が、誰が名付けたのか「恋の道」と呼ばれている。

(不和となっていた夫と願いが叶って復縁したと言われていることからそのような名がついたのであるという。)

和泉式部の父は越前守大江雅致(おおえまさむね)、母は太(たい)皇太后(こうたいこう)(天子の祖母)昌子の乳母だった人である。

やがて式部は父の部下であった橘道貞と結婚する。

その後、夫の任地が和泉(いずみの)守(かみ)となり彼女は「和泉式部」と呼ばれるようになった。

そして、母譲りの歌才のある小式部(こしきぶの)内侍(ないし)を生んだ。

幸せの絶頂期にありながら、式部は夫が赴任中に冷泉家の皇子である為(ため)尊(たか)親王と恋に落ちてしまう。

親王二十二歳、式部二十六、七歳の頃のことであった。

面子を汚された道貞は怒って式部を離縁した。
ところが、その為尊親王は二年後に亡くなってしまう。

その死後、あろうことか今度は、兄の面影を残す弟の敦(あつ)道(みち)親王の猛烈なプロポーズに負けてしまい式部は恋に落ちる。

しかし、彼もまた五年後に早世してしまう。

この敦道親王との恋の顛末を記したものが「和泉式部日記」である。

そんなことがあってなかなか立ち上がれずに落ち込んでいた式部に藤原道長は宮仕えを勧めた。

道長の娘・上東門院彰子(一条天皇の中宮)が式部の歌才を惜しんで出仕を是非にと懇望していたからである。

式部はやっと中宮の女官として仕えるようになった。
こうして紫式部等と共に宮廷サロンが築かれていった。

そして、この宮仕えが契機となって式部は道長の家臣であった藤原(平井)保(やす)昌(まさ)と再婚をし、夫の任地であった丹後に下った。ところが運命の悪戯か、一人娘の小式部内(こしきぶのない)侍(し)が万寿二年(１０２５)、幼い子供を残して他界してしまう。

小式部二十五、六歳の頃と言われている。

「大江山　いく野の道の　遠ければ　まだふみも見ず　天の橋立」という彼女の和歌が母の歌と共に百人一首に納められている。

母の和泉式部の悲しみは深かった。

「とどめおきて　誰(だれ)を哀れと思うらむ　子はまさりけり　子にまさむらむ」(娘は親の私や小さな子供を残して亡くなってしまった。あの娘(こ)は誰のことが気掛かりであったのであろうか、きっと子供のことになんだわ、残していく子供のことほどつらいことはないだろう。私だって娘が亡くなったことがこんなに悔しくて哀しいのだから)と切々とした悲しみが伝わってくる。

式部はこの世の無常を感じ、当時女人には出来ないとされていた女人往生を「南無阿弥陀仏」を念仏することで女人往生を遂げようとただひたすら願っている。

藤原定家は数ある式部の歌の中から小倉百人一首に「あらざらむ　この世のほかの思い出に　いまひとたびの　逢うこともがな」(私の命はもう長くない。あの世へ旅立つ前の思い出に、もう一度恋しかったあの人に逢いたい)との歌を選んでおり、式部の代表作のようになっているが、死を前にしてもなお恋しい人への情熱的な愛の叫びとなっており、その業の深さの哀れさ・切なさを感じてしまう。

京で浮名を流したことから、藤原道長は式部を「浮かれ女(め)」と評したほどスキャンダラスな女性というネガティブな言い方もしている。

同時代の紫式部も式部の歌の魅力・実力を認めながらも、多情で浮気な女と酷評しているが、それでも式部の瑞々しい情感に溢れた歌は、時代を超えて今なお私達の心に響いてくる。

毎年七月十七日、京都の祇園祭で山鉾巡行が行われるが、その中の「山」の一つ「保(ほう)昌山(しょうやま)」は再婚した丹後守の平井(ひらい)保(やす)昌(まさ)と和泉式部の恋物語に材を得たもので、保昌が式部の求めによって御所に忍び込んで紫宸殿の紅梅を手折(たお)ってくるという姿をあらわしている。

その甲斐あって目出度く二人が恋を実らせたという山の故事にちなみ、宵山では「縁結び」の御守りが授与されており、沢山の人が買い求めている。

京都の新京極通りと言えば、修学旅行の生徒の観光スポットの一つであるが、蛸薬師通りを上ったところにその賑わいとは無縁であるかのように、ひっそりとした佇まいの誠心院(せいしんいん)という寺がある。

この寺で式部は出家し、彼女の墓所もここにある。

本堂内には式部の像も安置されている。

境内では式部のファンの方はもちろん、ここがあの式部の墓なんだ、こんなところにと意外な顔をしながらお参りしている方をよく見かける。

尾道には和泉式部伝説がある。

長徳四年(９９４)和泉式部が船で厳島神社に参詣に向かっていた途中、布刈(めかり)の瀬戸でにわかに海上が荒れ始め、乗っていた船が難破しそうになった。

式部は観音菩薩像を胸に抱きしめ一心にその暴風雨が治まってくれることを祈ったところ、無事向島の古江(こえ)の浜(尾道市向東町古江浜)に漂着することが出来た。

このことに感激した式部は、守り本尊として持っていた観音像を安置して、西金寺(尾道市向東町歌)を草創したと伝えられている。

現在の西金寺の鐘楼門をくぐった左側には再建した観音堂があるが、残念ながら式部が祈願したと言われる聖観世音菩薩が安置されていたという観音堂は江戸時代に焼失しまって現存はしていない。

その観音堂の脇を抜け、裏山の墓所の中の細い山道を登って行くと、既にすっかり風化してしまっているが、一メートルばかりの高さの式部の五輪塔が東の方を見てひっそりと建っている。

関係者の方が手入れされているのか、一メートル四方程の敷地は綺麗に掃除が行き届いている。

又、式部が漂着したという古江(こえ)の浜には、大正十一年(１９２２)に建てられた「和泉式部手植下り松碑」との石碑が建っているが、残念ながらその下り松自体は既に枯木となってしまっている。

地元の人が金毘羅さんと呼んでいる神社の境内には、古びた舞殿と笠木の上に風で飛ばされないよう漆喰で固められた瓦が乗せてある珍しい鳥居、海中から引き上げたと言う自然石に水穴を削っただけの手水鉢などがある。

前方に堤防が出来ていて、海とは区切られてしまっているが、式部が漂着した当時はこのあたりは漣が寄せては返す砂浜で白砂青松の海岸線が広がっていたのではないかと妙にノスタルジックな気分にさせられてしまうと同時に、雑木種に変わった周りの木々の変化に地球の温暖化かなどと現実に引き戻されてしまう。

京都市上京区六軒町あたりにあったと言われている護念寺を開基したという月(げつ)舟(しゅう)和尚、その月舟和尚と、月舟和尚の後継者であった比丘尼・月(げっ)浦(ぽ)の冥福を祈る為、京都から下向して、西金寺の住職となった比丘尼・覚(かく)照(しょう)が、西金寺に縁の繋がる比丘尼達十数名を集め、自身の両親、祖母も含め、死者の霊魂が一日でも早く成仏するように、又、神仏の恩恵が全世界の衆生に与えられる事を願って写経し、奉納したという「反古紙経」が、安芸の宮島の厳島神社に残っていた。

この「反古紙経」は、当時は大変貴重であった紙(連歌懐紙や公私の古文書など)を糊で継ぎ合わせて巻物にし、その裏面に写経したもので、結果的にその背文書に書かれてある古文書(１２８８～１３３０)により、鎌倉時代の尾道向島で住んでいた人々の暮らしぶりを垣間見る事が可能となっている。

古文書には、酒屋一同から提出された年貢減免嘆願書や京都の東寺の領地であった弓削(ゆげ)島(じま)か因島の百姓が、年貢を踏み倒した話、歌島の公文職兼預所(あずかりどころ)(年貢などを管理する職名)に任命されていた知(ち)栄(えい)という人物が借金をした話、京都に住んでいた知栄の娘が法要を依頼した文書などを読み取る事が出来る。

しかし残念ながら、直接和泉式部に結びつく資料は今のところ見つかっていない。

和泉式部のこのような説話や墓地は全国に二十ケ所以上残っているようであるが、近くでは島根県の奥出雲の亀(かめ)嵩(だか)にも祠が建っている。

向島・歌に残るこの和泉式部伝説は向島が当時、大炊寮領(皇室御料地)として、在京の三条の中原氏(大炊領頭)の支配下のもとで経済的発展を遂げていく中で、中央の貴族の文化が少なからず流れ込み、とりわけ歌好きな比丘尼達によって、京文化に心引かれ、和泉式部の宮中生活や華やかな恋の遍歴、又、悲劇の主人公として自分に重ね合わされ語り継がれて行くうちに伝説として定着してきたものなのであろう。

民俗学の第一人者である柳田國男氏も「中世にかけて京都の誓願寺派の比丘尼が和泉式部の伝説を語り歩いていた」と語っておられる。

式部が初恋の人橘道貞を恋しさのあまり忘れかねて詠んだとされる「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまずかきやりし人ぞ恋しき」の歌のように激しく情熱的な恋は女性にとっていつの時代も憧れなのであろう。