福善寺

兵庫県朝来市(あさごし)和田山町にある天空の城「竹田城跡」は、但馬(たじま)の国の守護でもあった山名持豊(宗全)が、播磨・丹波から但馬への侵入路に位置する要衝の地に永享三年(1431)に十三ケ年を費やして築いた城で、初代城主に任命されたのが宗全の側近であった大田垣因幡守光景(おおたがきいなばのかみみつかげ)である。

大田垣氏はその後七代にわたって城主として竹田城を治めている。

その光景の孫の大田垣甲斐守は播磨国の本徳寺において出家し、「行栄」と名乗って播州阿賀(あが)で道場を開いていたが、秀吉の侵攻に伴い、戦乱を避けて尾道に下り、天正元年(1573)五月、久保の宮崎(現在の尾道市久保二丁目、亀山八幡宮の門前界隈・爽籟軒(そうらいけん)付近)に小庵を結んだ。

当時この地方には浄土真宗がまだ広まっておらず、行栄は近郊の住民に医業を施して生業(なりわい)とし、その傍(かたわ)ら念仏布教を行っていた。

行栄の子念西の時代になってやっと真宗の教線が開かれ、尾道での総道場を開くことを許され、土堂町寺小路(尾道市土堂二丁目の村上医院西側の石畳の小路)に一宇を建立して福善寺と称した。

寛永七年(1630)、第三世行尊の代になってこの福善寺を現在地(尾道市長江一丁目)の丹花(たんか)の丘陵に移した。

この頃には本願寺直参の「一家衆(いっけしゅう)」に加えられるとともに、五摂家の一つである九条家の菩提寺格寺院にもなっている。

そして江戸末期の第十一世住職性圓は御内儀を烏丸大納言家より迎え入れた。

福善寺山門の菊丸紋

烏丸家(からすまるけ)はもともと藤原北家日野家の分流で日野資康(すけやす)の三男日野豊光(とよみつ)を祖としており、家紋は「鶴の丸」で累代(るいだい)歌道を家業とし、中立売御門之内東側(京都市上京区)に住まいしていた。

日野豊光は室町時代の公卿(くぎょう)で権中納言、検非違使別当などを経て足利四代将軍義持(よしもち)の側近として重用された。

姉の康子は三代将軍義満の妻として、妹の重子も将軍義持の妻として嫁いでいた。

そして豊光は六代将軍義教(よしのり)のはからいで「烏丸(からすまる)」を称し、烏丸家の祖となった。

その第十九世が従一位権大納言烏丸(からすまる)光政(みつおさ)で、その令嬢が性圓の室である。

又、子息の烏丸(からすまる)光徳(みつえ)は王政復古、戊辰戦争に功があり、東京府知事にもなっている。

ちなみに第九世烏丸光広(みつひろ)は細川幽斎から古今伝授を受け二条派の歌人として歌道の復興に力を注いでおり、将軍徳川家光の歌道の指南役も勤めている。

福善寺本堂

「ええもんは福善寺」と尾道の名所にもなっている山門は、四脚門(よつあしもん)で本瓦葺の切妻造となっており、軒丸瓦の円形瓦頭(がとう)は烏丸家(からすまるけ)の家紋である鶴丸の文様となっている。

欄間には豪壮な龍の彫り物が施され、門の扉にも烏丸家との由緒を物語る精巧な鶴丸の紋、柱間(はしらま)には透かし彫りの獅子、木鼻には見事な象や獅子の彫刻がなされている。

これらは烏丸大納言家から御内儀を迎えた時の結納品で、この木組み一式は細部の要領を承知した京都の名工によって京都で製作され、尾道の大工がこれを当地で組み立てたものである言われている。

境内に入ると右側に「鷲(わし)の松」と名付けられているとおり、あたかも大鷲が天に羽ばたく様な形をした、幹の太さが約三・五メートル、樹齢四百年の松の銘木が目に入ってくる。

現在この松は尾道市の天然記念物になっている。

枝の下には尾道石工の力作である姿の良い簪燈籠(かんざしどうろう)が置かれている。

正面玄関の唐破風の鬼板は大田垣家の家紋である木瓜(ぼっか)紋となっている。

又、隣の鼓楼の大棟の鬼瓦は同じく木瓜紋、降棟の先端は鶴丸紋、隅降棟の先端は木瓜紋と配されている。

本堂前庭には享保三年(1718)の火災で焼失した庫裏の大棟を荘厳していた見事な木瓜紋の鬼瓦が置いてある。

現在の庫裏は切妻造りで、梁行の妻飾りに蟇股を五つ横に並べており、漆喰の壁の白さとコンストラストをなしていて美しい。

本堂は入母屋造りで本瓦葺、大棟、降棟・隅降棟・稚児棟に向背を備えている。

本尊は阿弥陀如来立像で、山号は光明山である。

その山号の由来にもなっている秘蔵の「光明本尊」(広島県重文)は鎌倉末期の図画本尊で、大変貴重なもので代々門外不出とされている。

本堂内陣の襖絵は、幕末期の尾道の閨秀画家平田玉蘊が西本願寺御影堂の松竹梅の襖絵を素描して帰り、この本堂で画筆を揮(ふる)った筆勢(ひっせい)雄渾(ゆうこん)の大作「雪中の松竹図」である。

福善寺寺域全体が中世山城「丹花(たんか)城(じょう)」跡で、裏山の墓地には足利尊氏に従い筑前多々良浜の合戦で勲功のあった杉原信(のぶ)平(ひら)を祖とする木梨杉原家一門の家来であった丹花城主の持倉修理太夫父子の墓と伝える三メートル近い巨大な石造五輪塔(尾道市重文)が鎮座している。

持倉氏は当時、代官として尾道を治めていたが、木梨杉原家が毛利輝元の命により周防国に移ったので、在所である木梨村(尾道市木ノ庄町)に引き上げたようである。

嘗てこの五輪塔は丹花坂の山陽本線にあたる場所にあった為、明治二十四年の鉄道敷設により現在の位置にまで担ぎ上げられた。

又、この山城裏の墓所には江戸時代の商人の墓が多く散見される。

当時、埋葬する墓は郊外に建てて、お参りする為の墓は町の近くの墓地にとの両墓制の風習があり、この墓所はお参りする為の墓所としていたので、墓と墓との間隔がひどく狭い。

墓石を見てみると、まだ名字を持っている人は少なく、職業名と名前だけが彫り込んである数多くの墓碑が見られることから、当時尾道が港を中心とした活気に溢れる商工業都市として大いに賑わったことも伺える。

小津安二郎監督の映画「東京物語」にはこの墓所の風景がカットとして挿入されている。

赤城の巨石

福善寺とは別の「大田垣氏」と備後との関わりであるが、応永八年(1401)、二月三日、備後の守護であった山名宗全の父である山名時熙が佐々木越前入道と共に大田垣通康を備後守護代に任じたことに始まる。

この頃、高野山を領主とする荘園大田庄は山名氏の「請地」となり、太田庄の倉敷地であった尾道浦も実質的に山名氏の支配下に置かれていた。

尾道浦は対明貿易の基地にもなっており、ここから上る収益は莫大なもので守護山名氏はこの地を支配するために大田垣氏を守護代に任じ、備後国内に睨みをきかせていた。

尾道バイパスと県道363号線の交差点(向峠ガード南側)をバイパス側道に沿って東進すると左手に見えてくる小高い丘に大田庄からの街道を押さえ、守護所尾道を守るために大田垣氏が築いた「赤城」があった。

そこは現在住宅地(しまなみタウン)となっており、その住宅街(尾道市東則(ひがしのり)末町すえちょう))の遊園地横には「赤城」の石垣に使われていたと言われている巨石が残っている。

その巨石の前には二つの祠がお祀りされている。

山名氏は宗全・政豊・俊豊・致豊・誠豊・祐豊と備後の守護を百三十七年間にわたって続けているが、大田垣氏も山名氏の後ろ盾により守護代として活躍していたものと思われる。

しかし、虎視眈々と尾道進出を狙う安芸の毛利氏が山名氏や大田垣氏、備北の国人山内氏の勢力を排して尾道を支配下に置くようになっていく。

竹田城址

一方、但馬の大田垣氏本家の竹田城第七代城主大田垣輝(てる)延(のぶ)もそれまで敵対していた毛利輝元と組んで、天下布武を図る織田信長に対抗しようとしたが、但馬に送り込まれた辣腕豊臣秀吉により、天正八年(1580)本拠地であった竹田城はあえなく落城する。

最高所の天守台をほぼ中央に置き、本丸以下南方に南二の丸、南千畳、北方に二の丸、三の丸、北千畳を築き、峻嶮さを利用して城を守るという典型的な山城である竹田城は山名氏、大田垣氏の拠点として長年にわたって栄華の舞台になっていた。

全国でも数少ない現存する山城の遺構の曲輪に立って、備後とりわけ尾道での大田垣氏のその後の活躍を思うと、城跡に吹き渡る風の中に「天上影は替(かわ)らねど 栄枯は移る世の姿 写さんとてか今もなお 嗚呼 荒城の夜半の月」の思いを禁じえない。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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