足利義政・足利義尚

足利八代将軍義(よし)政(まさ)は永享八年(1436)六代将軍の義教(よしのり)を父とし、藤原(ふじわら)北家(ほっけ)の公家日野重光の娘重子を母として兄義勝の弟として生まれた。

しかし、父義教が暗殺され、兄の七代将軍義勝が十歳で病死したことにより、自(みずか)らの人生が一変した。

総領でなかったことから本来なら仏門に入って趣味三昧の一生をおくるはずであったが、わずか八歳で家督を継ぎ、十四歳で八代将軍の座(ざ)に就いた。

補佐役には当時十六歳であった管領の細川勝元がなったが、当時の政権は財政基盤が脆弱な上に、優秀なブレーンがおらず、守護大名の合議制による幕府の機構が上手く機能していなかった。

又、荘園領主が課税のしわよせを農民に押し付けたため、各地で土一揆が起っており政権は不安定そのものであった。

康正元年(1455)、義政が十九歳の時、日野家から将軍家に嫁ぐべく英才教育を受けて育った十六歳の富子を正妻に迎えた。

そして四年後、富子は夫婦が望んだ待望の男子を出産したのであるが死産であった。

これを富子は義政の乳母(めのと)(側室)であった御今(いまお)が調伏(ちょうぶく)(呪い殺した)したとの噂を信じて、御今を琵琶湖に浮かぶ沖ノ島に島流しにする。

それだけでなく沖ノ島が京に近いからという理由で御今を殺害してしまうという残虐な事件が起きている。

この事件は御今と不仲であった義政の母(重子)の計略によるものという説もあるが、夫婦仲はこれを契機に徐々に冷えていった。

富子は義政を軽視し、兄の大納言日野勝光と結託し義政に代わって幕政を断行、富子の幕府内での発言権は増していった。

内憂外患といった状況の中でも義政は始めのうちはなんとかして将軍親政を目指そうとしていたが、そのうちに政治への情熱を失い、浄土寺殿と呼ばれ仏門に入っていた三歳年下の弟を将軍職に就けようと「もしも若君が産まれてもその児は仏門に入れさせる」と無理矢理還俗させて義(よし)視(み)と名乗らせ、自らは政界から身を引いてしまう。

ところがその次の年に富子が男子(義(よし)尚(ひさ))を出産した。

義視を次の将軍にすると確約していた義政と、なんとしても我が子を将軍にしたいとする妻富子とは決定的に対立することとなった。

幕府髄一の実力者の管領細川勝元が義視を推挙し、勝元に次ぐ実力者であった山名持豊(宗全)が富子・義尚を擁立して争い、有力大名の家督争いも絡んで、応仁元年(1467)に起った応仁の乱はその後十一年にわたって戦乱が続いていくことになる。

義政は結局富子の軋轢(あつれき)に負け、文明五年(1473)将軍職を息子の義(よし)尚(ひさ)に譲った。

完全に政治への情熱を失った義政は文明十四年(1482)二月四日、東山殿の造営を始めた。

富子と後土御門天皇との噂もあったりして夫婦仲が完全に破綻していた義政は、常(つね)御所(ごしょ)が完成すると直ちに室町御所を出て完成したばかりの常御所に移り住んだ。

禅室(西指(せいし)庵(あん))、東求堂(とうぐどう)、会所(かいしょ)(はれの建物)、泉殿(香座敷)と次々に竣工していく中で、義政は中心となる観音殿(銀閣)を造るのに当たってだけは祖父義満の残した舎利殿(金閣)に倣(なら)おうと舎利殿(金閣)に下見に出かけた。

そもそも、この東山殿の造営については相国寺の横川景(おうせんけい)三(さん)を相談相手として、基本的に全体像は西芳寺(苔寺)を手本として造られており、建物の名称や庭園の造形などの他は全て西芳寺に倣っているのである。

又、義政は造営にあたって、特別税をかけ資金を調達し、資材や巨岩、巨石、植栽などを有力守護大名、有力寺院などから強引に献上させた。

一方で莫大な幕府の税収を管理していた富子は義政には一切資金援助をしようとはしなかった。

長享三年(1489)に観音殿(銀閣)の立柱式が行われたが、延徳二年(1490)、義政は観音殿(銀閣)の完成を見ずに、脳卒中により延徳二年(1490)一月七日、五十六歳で亡くなった。

観音殿(銀閣)の内外を黒漆で塗りおえた状態で亡くなったので、義政が金箔張りの金閣に倣(なら)って黒漆の上に銀箔を張るつもりでいたかどうかは今となっては分からないが、近年の改修の際に一部に極彩色に彩られていたと思われる跡が発見されている。

観音殿のこの建物は二層からなり、一層の心空殿は書院風で、二層の潮音閣は板壁に花頭窓を設えた唐様となっており、室内には観音殿の名前の由来になった古木の中にすっぽりと納まった洞中観音と呼ばれる観音菩薩がお祀りされている。

現在、慈照寺(銀閣寺)で展望所となっている高台からは遥かに京都市内を望むことが出来るが、義政も東山殿を造営当時、工事の進捗状況を検分しながら、そこから応仁の乱の戦火で家を焼かれて逃げ惑い、その日の糧を求めて彷徨っている多くの民衆の姿も見えていたことであろう。

そんな義政が詠んだ句が残されている。

「くやしくぞ 過ぎし浮世を 今日ぞ思ふ 心くまなき 月をながめて」
「わが庵(いお)は 月待山のふもとにて かたむく月の影を しぞ思ふ」

錦鏡池の水面(すいめん)のような義政の深く静かな悲しみ、悔しさが伝わってくる。

遺言によって東山殿を寺に改め、夢(む)窓(そう)疎(そ)石(せき)を開山とし、義政の法号である慈(じ)照院(しょういん)殿(でん)をとって慈照寺(じしょうじ)と称した。

その後の戦乱で観音殿(銀閣)と東求堂(とうぐどう)だけを残して荒廃していたが、元和年間から寛永年間にかけて宮城丹波守豊盛などの尽力により復興し、現在に至っている。

尾道の西国寺は行基菩薩開基の名刹と言われているが、西国寺山腹には足利義政の外(げ)護(ご)で有尊上人が復興した堂宇が境内に建ち並んでいる。

備後の守護山名氏は室町幕府の大陸貿易に便乗し、尾道の港の権利を手にして盛んに対明貿易(勘合貿易)を行い巨万の富を手にしていた。

当時、尾道には「其阿弥」と称する刀匠の一派がいて、尾道港からは一回に二万から三万本もの日本刀が輸出されていた。

明国ではこの日本刀を「神品」として珍重されたという。

一方、明からは古銭(お金)を輸入しており、日本の貨幣経済の一翼を担っていた。

尾道市木ノ庄町でも大量の古銭が見つかっている。

当時の遣明船は瀬戸内海航路用の大型商船を改造した千石積みの船で、尾道に船籍をおいた大船は四十五隻にも及んでいたという。

こうして得た財力で、永享年間には備後国の守護山名時熙(やまなときひろ)、持(もち)豊(とよ)(宗全)親子を始めとする山名一族はこの利権を守り、尾道の人々の人心を収めようと信仰の中心であった西国寺に四十四年間にわたって莫大な寄付をし続け、堂塔の整備を行っていたのである。

西国寺にはこの寄付帳が残っており、広島県の重要文化財となっている。

康永二年(1389)には山名時熙(やまなときひろ)は義政の祖父である足利義満を厳島詣での帰路、二代将軍足利義詮が伽藍を整えた天寧寺に招いている。

義政の父六代将軍義教が西国寺摩尼山頂に永享元年(1429)に建立したという三重塔のスポンサーも山名氏であった。

お隣の三原市の備後一宮である御調八幡宮にも、山名氏がスポンサーとなって嘉吉二年(1443)足利義政の名で奉納されたという木造の狛犬一対が残っている。

もちろん義政は東山殿造営にあたっても山名氏から資材や巨石、植栽などを強引に献上させたのは言うまでもない。

足利九代将軍となる足利義(よし)尚(ひさ)は父、足利義政と妻・冨子にとって待望の男の子であった。

自身の政治能力の力量に限界を感じていた義政は、文明五年(1473)に八歳の義尚に将軍職を譲った。

父や母とは折り合いがうまくいかなかった義尚であったが、成長するにつけ学問を好み、十八歳の頃には私撰和歌集(新百人一首)を選定するほど和歌にも長じていた。

若くして文武両道に深く通じていくことで、下克上の高まりによって失墜した幕府の権威を回復しようと努力して効を奏しつつあった。

守護大名達も徐々に義尚を信頼するようになっていた。

しかし文明二十一年(1489)三月、近江南部の公家領や寺社の荘園を横領した近江国(滋賀県)の守護六角高頼(ろっかくたかより)を討伐するため、近江鈎(まがり)(滋賀県栗東市)に陣を張っていた時、義尚は突然意識を失って倒れ、脳溢血で亡くなってしまう。

義尚二十五歳のことであった。

臨終に際して義尚は父に「ながらへば 人のおもひも見るべきを 露の居の命ぞ はかなかりける」(もう少し長く生きておれば世の中の色々な事が理解できたのに、もちろん親父とも分かりあえたであろうが、こんなにも早く死んでしまうのは本当に悔しい、残念だ。)との和歌を詠んでいる。

義尚が出陣に先立ち東山を訪れたのが今生の別れとなった。

この和歌を受け取った義政は「埋(うもれ)木(ぎ)の 朽(く)ちはつべきは 残りゐ(い)て 若枝の花の散るぞ 悲しき」(私のような役立たずの年寄りが生き残って、これからという若い後継ぎが若い木が裂けるように苦しんで死んでしまった。

天はなんとむごいことをするものか)と深い悲しみの歌を詠んでいる。

義政は義尚の新盆を迎えるにあたり、相国寺七十九代住持・横川景三(おうせんけいさん)の進めで、如意ケ岳の山の斜面に白布をもって「大」の字を作らせ、東求堂から山面を望んで字の形を決め、斜面に七十五ヶ所の火床を掘らせた。

お盆の十六日にその火床に積み上げた松の割り木を一斉に点火して義尚の精霊を送った。

如意ケ岳(大文字山)

現在の五山の送り火の始まりである。(諸説あり)義政も次の年に亡くなっているので、彼が送り火を見るのはこの一度だけになるのであるが、赤々と燃えさかる送り火を見て、やりきれない無常感に苛まれていたことであろう。

東山殿造営当時の遺構として現存する国宝・東求堂。

その堂内にある四畳半の一部屋を「同仁斎」というが、この書斎で義政は書を読み、和歌を詠い、香をたき、花を飾って過ごした。

義政の名付けたこの同仁斎の名は「聖人一視而同仁」(韓愈)より、だれかれの差別なく、全てのものを平等に愛することを意味しているという。

義政は人生の肝要(かんよう)は「仁愛」であると考えていたのであろう。

波瀾の人生を歩んできた義政だからこその心境である。

近年の研究の結果、錦鏡池の浮石上に当時の十三夜の月の軌道が重なっていくことが解っている。

中秋の名月の軌道ではなく十三夜というあたりにも義政の美意識が見て取れる。

四季折々の自然空間を巧みに取り入れたこの深い精神文化が日本の文化の母体となっていることは多くの人の認めるところである。

しかしながら昨今、長い年月を経て築き上げてきたこの麗しい日本の文化が失われつつある。

便利さが優先され、目先の利益に惑わされている。

自己中心的な考え方が横行し、基本的な家族の絆さえも失われようとしている。

そんな時代だからこそ、今一度、立ち止まって日本文化の源流である義政の東山文化を見直していくことが求められているように思われる。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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