菅原道真

菅原道真(845~903)は、わずか五歳で和歌を詠み、十歳を過ぎて漢詩を創作するなど神童と称された。

十八歳で朝廷の試験に合格して大学寮という教育機関に学び、三十二歳のときには大学寮の教官である文章(もんじょう)博士(はかせ)という地位について学者として名声を得た。
又、政治家としても能力を認められ、五十五歳で右大臣に任命されてからは、左大臣の藤原時平(ときひら)とともに天皇を支えて政治を行った。

北野天満宮

第五十九代宇多天皇は即位後、時の絶対的な権力者であった藤原基経(もとつね)と血縁関係のない菅原道真を抜擢し、藤原氏の専制を抑制する方針をとった。

その子第六十代醍醐天皇も道真を重用した。

道真が宇多上皇の大和の国巡幸のお供で手向山八幡宮に参拝した折に詠んだ「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず手(た)向山(むけやま) 紅葉(もみじ)の錦(にしき) 神のまにまに」(手向山八幡宮への突然の参拝に、お供え物を準備いたしませんでしたが、美しく織りなされた錦のような境内の紅葉を御神前にお手向けします)の和歌は小倉百人一首に選ばれている。

しかし、右大臣になった二年後、この道真の異例の出世が藤原氏の鼻につき、儒門(学者)から出た大臣はいまだかっていないと、時平は道真をおとしいれるため「道真は醍醐天皇を廃して娘(むすめ)婿(むこ)の斎(とき)世(よ)親王(醍醐天皇の弟)を擁立しようと謀っている。」との讒言(ざんげん)をふれまわった。

このことを聞きつけた醍醐天皇は怒って、道真に大宰府の太宰権師(だざいごんのそち)という役職を下命した。

左遷である。

道真は誤解を解いて考え直してもらおうと仁和寺に出家されていた寛平法皇(宇多天皇)のもとに駆けつけ、寛平法皇より醍醐天皇に対してふたごころのないことを伝えてもらおうとしたが、あいにく法皇は御影堂にて勤行中であったため、勤行が終わるまで水掛不動尊の前にある石の上に腰掛けて待っていた。

(現在、仁和寺にあるこの石を管公腰掛石と呼んでいる)法王の勤行が終られた後、道真は「流れ行く われは水屑(みくず)となりはてぬ きみ柵(しがらみ)となりて とどめよ」と讒言は何の根拠も無いことを法皇に懸命に訴えた。

道真の話を聞いた法皇は涙を流され、左遷を取り消すべく急いで宮中に参内したが、醍醐天皇の怒りは収まっておらず、父である法皇に会おうとさえしなかった。

法皇は空(むな)しく仁和寺に帰らざるを得なかった。

結局左遷が決まってしまって道真は都を去ることとなる。

道真は都を去る時「東風(こち)吹かば におひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春なわすれそ」と、あきらめの静かな境地の中に自分のやり残した改革を引き継いで欲しいと無念さを感じさせる和歌を詠んでいる。

道真は赴任して二年後の延喜三年(903)二月二十五日、大宰府で亡くなった。

御袖八幡宮の伝説

延喜元年(901)六月二十四日、九州大宰府に赴(おもむ)く途中、道真は尾道長江の浦に船を停めている。たまたま近くで農作業中の金屋某なる者が道真を親切にもてなし、小麦餅と甘酒を振舞った。

このことに感謝した道真は衣の片袖に自画像を描いて家主に与えたと言う。

この袖を御神体として御袖(みそで)御影(みかげ)天神(てんじん)と尊称した(金屋大神とも言う)御袖天満宮が尾道市長江一町目に鎮座している。

石段を左側に入った所に菅公が腰を掛けられたと言われる石が現存しており、金屋某が農耕中であった畑と言われる場所では、現在でも天神社にお供え用の小麦が作られている。

御袖八幡宮石段と随身門

この御袖八幡宮の正面参道を進み、芸州藩夫人が寄進した左大臣の阿形(あぎょう)像と右大臣の吽形(うんぎょう)像の随身門から本殿に至る五十五段の石段は明治三十六年(1903)に巾五百十五センチ、踏面三十一センチ、蹴上十七センチのサイズに花崗岩から一本物に打ち出して敷設(ふせつ)され造営されている。

その石段の最上段の五十五段目だけが意識的に一本ものでなく継がれて敷設されており、満ちれば欠けるの格言を実践している。

「我が技術、未だ未熟なり」という尾道石工(いしく)の謙虚な心意気を示しているとも言われている。

決して得意になるなと言う戒(いまし)めの細工とも言われている。

又、江戸中期に築造されたという石段の両側の石垣も、上に行くほど巨石が積み上げられており、レッカーやクレーンの無い時代、尾道石工の心意気を感じる造作(ぞうさく)である。

さらに境内には文化六年(18お9)と彫られた台座の上に「さすり牛」と名付けられた尾道石工による臥(が)牛(ぎゅう)の石像がある。

台座石より頭を左の本殿に向けて出し、微笑んでいるその顔の表情もこれまた見事と言うしかない。

冠天神社の伝説

延喜元年(901)六月二十三日、道真は古江(こえ)の浦(尾道市向東町古江浜)に立ち寄った。

道真は長い船旅で疲れていた。

大変暑かったこともあって、船を降りるとすぐ北東の丘に登り、頭に被っていた冠を解いて大岩の上に腰をかけ瀬戸内海の美しい景色を眺めてくつろいでいた。

そこにたまたま居合わせた土地の農夫が道真に麦餅と甘酒を振舞ったと言う。

その後、この丘は天神山と名づけられ、冠天神社が創建された。

道真が冠を解いて置いたと言う大岩が磐座(いわくら)で御神体となっており、この大岩を冠岩と称している。

この冠岩に登ると直ちに神罰を受けると言い伝えられており、江戸時代にこの岩に登ろうとした人が発狂したとの話が残っている。

又、冠岩を雨露にさらすのはしのびないので神殿を建てようとしたところ、天神山がにわかに鳴り動いたということがあったので、現在でも御神体の冠岩はそのまま屋外にある。

この伝説のせいかどうか、この付近には「冠」を使った苗字のお宅が散見される。

宇立天神社の伝説

延喜元年(901)、道真が西下の時、当時入り江のある良港であった宇(う)立(だつ)(尾道市向島町宇(う)立(だつ))に船を停め休息をとった。

土地の人が小麦をたいて甘酒と供に差し上げると道真はたいそう喜んで手に持っていた笏(しゃく)(官位にある者が礼装したときに帯の間にはさみ持ち、備忘のために君命などを書き留めた薄い板)を与えたと言う。

このことから宇立天神を笏天神と尊称している。

尾道大橋を渡り、歌島橋東詰を左に曲がり住宅を抜けた所にこの天神社は建っている。
菅原道真についての伝説は尾道ではこの三ヶ所のほか百島と御調などでも語り継がれている。

又、瀬戸田町では道真が讃岐の国司の時代の話が伝承されている。

このように道真伝説は全国的に一万ヶ所とも言われ、非業の死をとげた道真公に対する慰霊と鎮魂の思いがこんな形となって語り伝えられてきたのであろう。

尾道でもこういった情報がいち早く受け入れられることの出来た文化的成熟度の比較的高い地域であったことと、無念の思いの弱者を悼む仁愛の精神を持ち合わせていた土地柄、風土であったことを示している。

又、道真公が残していったものが御袖、冠、笏の違いはあるが、西下する道真公をもてなした物が不思議なことに小麦餅と甘酒であったことが共通しているのも面白い。

もともと原本があって小麦餅と甘酒の部分は変わらずに語り伝えられてきて、御袖と冠と笏の部分だけが変化してきたとも考えられる。

そんなに離れていない尾道の三つの場所で造営された道真公を祀る神社が何を願って建てられたのか、語り継がれてきた伝説は何を伝えたかったのであろうか。

もちろん道真公の聡明さにあやかりたい、学問向上成就の願いもあるであろう。

しかしそれ以上に、道真公の亡くなった後に都で起った天変地異を教訓として「人を呪わば穴二つ」と人を恨んではいけない。

皆と仲良くしなさい。

「天知る、地知る、我が知る」人として正しい行いをしなさい、との京都人の処世訓が語り継がれ、この土地への災いを回避しようとしてきたのではないだろうか。

尾道には「ふなやき」という数百年の歴史を持つ御菓子がある。

これは小麦粉を水で捏ねて焼鍋の上で薄く伸ばして焼き、味噌を塗って食べたのが始まりで、砂糖の入手が容易になるにつれて、現在の「ふなやき」になったのであるという。

道真公をもてなしたのが、このふなやき(小麦餅)であったという話もある。
尾道ではこの「ふなやき」を旧暦の六月一日に食べると夏病みしないと言われている。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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