小督局

宮中で美人の誉れの高く、琴の名手でもあった小督(おごう)は平清盛の娘(平徳子)を后(きさき)としていた高倉天皇の寵愛を一身に集めていた。

そして、ついには子供(範子内親王)の誕生にまで及んで、清盛は「これでは娘があまりにも可哀想だ」と烈火のごとく怒って、「小督など殺してしまえ」と命じる。

この事にいち早く気付いた小督は自分の身はどうなってもかまわないが、高倉天皇が悩まれるのだけは心苦しく思い、こっそり内裏を抜け出し姿を晦(くら)ましてしまった。

清閑寺

そんな健気な小督の気持ちを知った高倉天皇はどうしても小督のことを諦めきれず、家来の藤原(ふじはら)仲(なか)国(くに)等に「なんとしても小督を見つけ出せ」と指示し捜させる。

いろいろつてを頼って何日も捜し訪ねるものの小督はなかなか見つからなかった。

ある日、仲国が嵯峨野の渡月橋のほとりを空しく通り過ぎようとしていた時、秋の夕暮れの中に琴の音が微(かす)かに聞こえてきた。

その調べに誘われるように近寄ってみると、その琴の音は高倉天皇のことを思って想夫(そうふ)恋(れん)という歌を奏でていた小督であった。

高倉天皇はすぐに小督を御所に連れ戻した。

ところが清盛は小督がすでに死んだものとばかり思っていたので、その事を知った清盛は
「小督めを御所から引き出し、どこでなど頭をまるめて尼にしてしまえ。そのうえは、追放じゃ。二度と内裏のあたりに近づけまいぞ」

と、六波羅から武士二人を差遣わし、小督を御所から引っ立てて清閑寺(せいかんじ)(京都市東山区清閑寺山ノ内町)で強引に出家させてしまった。

この事が高倉天皇の心を深く苦しめ、病の床に伏せってしまい、ついに「私が死んだら小督のいる清閑寺に葬ってくれ」と遺言されて若干二十一歳で早世されてしまう。

清閑寺は「歌の中山」と号する真言宗の智山派の寺で、清水寺の奥の院から子安塔を右に見て、一〇分ほど山道を東に登って行った所にある。

山門への石段の登り口の左側に高倉天皇の御陵と、その傍らに天皇の死後生涯にわたって菩提を弔ったといわれる小督の墓塔がある。

清閑寺の境内からは京都の町があたかも扇を開いたように眺望される。

その扇の要にあたる位置にある石を清閑寺では「要石」と呼んでいるが、小督もこの要石の上に立って宮中の日々を懐かしんでいたと伝えられている。

京都嵐山の渡月橋の北詰を右側に曲がると、すぐに橋とはなかなか気づかないが「琴聴(こときき)橋(ばし)」がある。

このあたりで小督の奏でる琴の調べに藤原仲国が馬を停めたことから「駒留(こまどめ)橋(ばし)」とも言われている。

さらに百メートルほど西に進んでいくと右側に小督が隠れ住んだという居蹟があり、五輪の供養塔「小督塚」が建っている。

小督塚(渡月橋北詰西入)

これは女優浪花千恵子さんが整備されたものである。

黒田武士の歌詞の二番「平家物語・卷六・小督」では「峰の松か松風か訪ぬる人の琴の音か駒ひきとめて聞くほどに爪音(つまおと)頻(しるぎ)想夫(そうふ)恋(れん)」と歌われているがこの話が元になっている。

尾道には小督にまつわる言い伝えが残されている。

安芸の宮島(厳島神社)は古くから航海の神として信仰されていたが、平清盛が安芸守になってから平家一門の尊崇を集めていた。

二十歳になった高倉上皇は平清盛に指示され、治承四年(1180)三月十九日、清盛共々船で宮島に参拝することになった。

当時は平家の全盛期であった。

高倉上皇はこの年の二月に数え年三歳の安徳天皇に位を譲り上皇になられたばかりであった。

この譲位も清盛の強制によるものであったことは言うまでもない。

上皇の更衣(後宮女官の称)であったお満の方(小督)も上皇に従って宮島の参拝に同行していたが、上皇御自身のことよりも何かとお満の方(小督)の事に気を使われていて御迷惑をおかけていることが心苦しく、三月二十四日清盛の手の者から隙を見て姿を晦(くら)まし、古江(こえ)の浦(尾道市向東町古江浜)で逃亡を企てた。

それからしばらく天神山の東側にある御満堂(おまんどう)・伏せ窪(ふせくぼ)の地に隠れ住んでいたが、清盛の追手の追及は予想以上に厳しく、お満の方(小督)はこれに耐えきれず自ら入水自殺をして果ててしまう。

お満の方(小督)の遺体が流れ着いたのが才(さい)越(ごし)の小高下(おこうげ)海岸(尾道市向東町才越小高下)であった。

当時はこの辺りまでが海岸であった。

小督の供養塔(尾道市向東町才越小越)

流れ着いたというその場所には現在地蔵堂とその横に古い一石五輪の供養塔が建っている。

この供養塔こそお満の方(小督)の霊を慰めるため、土地の人達が建てたものであると言われている。

小高下という地名もお満の方(小督)が京都から下向(げこう)してきた土地であるということに由来しているという。

お隣の福山市沼隈町(ぬまくまちょう)にも上皇が尾道から鞆浦に抜ける途中の岸に咲く藤の花があまりにも見事であったので立ち寄って持ち帰ったという言い伝えが残っている。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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