千光寺

尾道はレトロな町である。

尾道の港は嘉応元年(1169)、後白河法皇より大田庄の倉敷地とされて以来、瀬戸内の温暖な土地柄と対岸の向島を防波堤として天然の商港として繁栄を遂げてきた。

港の発展により江戸時代にはこの地を治めていた芸州藩に「政治は広島、財政と文化は尾道」と言わしめるほどであった。

明治十一年(1878)尾道に第六十六国立銀行が創業されているが、現在広島市の中区に本店のある広島銀行の前身である。

又、明治六年に発足した住友家の尾道分店は明治二十五年住友尾道分店として別子銅山と別子銅山の精錬所のある四阪島(しさかじま)との中継基地となり物品調達を行った。

港には専用の住友桟橋もあった。

別子銅山の経営を中心に発展した住友家は明治二十八年の重役会議において住友銀行の創業を決めているが、尾道の分店は神戸支店と共に全国初の支店(現三井住友銀行尾道支店)となっている。

現在でも住吉浜の近くの米場通りに当時の金融関係の建物が残っている。

尾道は造船の町とも言われる。

明治三十九年向島の小歌島で松葉嘉吉が創業した松葉鉄工所は紆余曲折を経ながら現在向島ドッグとして事業を拡張している。

明治四十四年大阪鉄工所は日露戦争後の不況で休業閉鎖中であった因島の因島船渠㈱を買収し、大阪鉄工所因島分工場として船舶の修繕を中心に経営を始めた。

その後向島船渠㈱も吸収し、昭和十八年には日立造船㈱と社名を変え変貌を遂げていき、従業員五千人をも抱える巨大企業と成長していった。

その後、業界の好・不況の波に翻弄され、昭和五十一年因島と向島の両工場は広島工場として統合され、対岸の向島工場は新造船工事を停止することになり鉄骨構造物等の工場として再出発しているが、往時の活況は無くなった。

尾道は寺の町とも言われる。

尾道の豪商達が自分達の菩提寺を競って作った名残であるとも言われ、狭いエリヤに江戸初期には八十一カ寺もあったという。

現在でも尾道の町中に二十五カ寺を残っている。

前面に尾道水道、背後に大宝山・摩尼山・瑠璃山の尾道三山に囲まれた狭い生活空間にしては頗る数が多い。
全国的に見ても稀有なことである。

その昔、西国街道であった本通り商店街を中心とした家並みが、肩を寄せ合うように東西に伸びている中にあって、大きな寺の屋根が目立っている。

昭和七年「大屋根はみな寺にして風薫る」と詠んだのは、この地を訪れた「ふじの山」の作詞家で児童文学者でもある巌谷(いわや)小(さざ)波(なみ)である。

千光寺本堂

尾道の観光客の半数近くが千光寺を訪れている。

千光寺は寺伝によると開基は大同元年(806)で、中興の祖は源氏の名将多田満仲と伝えられている。

しかし多田住職はそれより以前からこの山の景勝、奇石、巨石を当時の人々が自然に対する畏敬の念として信仰の対象になっていたのではないかと仰っていた。

確かに境内にはびっくりするほどのいくつもの巨石があり、なかでも中央の巨岩「玉の岩」にはその昔岩の頂に如意宝珠があって、夜には町を照らし出していたと言われている。

このことから尾道を「玉の浦」と呼んで「ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり」という歌が古くから人々の間で愛誦されている。

朱塗りの本堂は赤堂と呼ばれ、御本尊である十一面千手観世音菩薩は聖徳太子の作として伝えられており、三十三年に一度の開帳の秘仏となっている。

本堂は山の傾斜地に建てられているため舞台づくりとなっており、その舞台の上から望む、はるか四国路までの眺望は素晴らしい。

本堂西南側には寛政四年(1792)、当時尾道に庵を結んでいた俳人の長月庵若翁を中心に俳人五十二人が集まり、芭蕉の百年忌祭の句会を催し、その記念にと建てた芭蕉の「うきわれを寂びしがらせよ閑古鳥」(閑古鳥に是非頼みたい。

もの憂い私を寂しさを楽しむぐらいの境地にまで誘っておくれ) と芭蕉の作句にあたっての誠実さとストイックさが感じられる味わい深い句碑が建っている。

ちなみに尾道の長江の正授院には長月庵若翁の「蓮に座して今や真如の月見かな」という句も残されている。

「江戸時代、北前船の寄港により繁栄を極めた港町尾道、その尾道の町には豪商を中心として茶園(さえん)文化が醸成されていた。

それが現在も「おのみち俳句まつり」という形で引き継がれており、公募して入選した句が春の千光寺公園の桜の下の雪洞(ぼんぼり)に作者の名前と共に記されて発表されている。

この句碑の西側の三十三観音堂は西国三十三観音霊場巡礼の一番寺の青岸渡寺の御本尊如意輪観音像から、三十三番寺華厳寺の御本尊十一面観音像までの三十三の観音像を一堂に納めてあり、ここにお参りすることで西国巡礼が果たせるようになっている。

その三十三観音堂の扁額には「大悲閣」と書かれている。

尾道の千光寺とは名前が同じというだけで特に繋がりはないが、京都にも千光寺という名の寺が京都市西京区嵐山中尾下町にある。

この寺は正式には嵐山大悲閣千光寺と言って、三十年ほど前までは黄檗宗の寺院であったが、現在は単立の臨済系の禅寺で、山号は嵐山、御本尊は恵心僧都作と伝えられている千手観音菩薩立像である。

長崎県御出身の大林住職はここを訪ねて来た人達からよく寺名に「悲しい」という字はそぐわないのではと聞かれるそうで、その度に「大悲」の「悲」は観音菩薩の広大無辺の慈悲の「悲」からきており、観音様が苦しんでいる衆生を救って下されようとしておられるのですよ。そして平地にある観音堂は大悲堂、山の上の観音堂は大悲閣呼んでいるのですよ。と優しくお話ししてくれた。

この寺に行くのには渡月橋を渡り、さらに大堰(おおい)川(がわ)に架かる渡月小橋を渡った南詰めから、山の緑を映した瑠璃色の保津川に沿って上流に進み、途中保津川下りの観光船の終着点を右対岸に見ながら、楓や桜の木立の中に続く小道を登り下りして十五分程行った所に「大悲閣道」と書いた緑泥片岩の石碑が建っており、これがこの寺の入口である。

道中は嵯峨野界隈の喧騒に比べて比較的観光客も少なく静かな散策を楽しめる。

この嵐山大悲閣千光寺は慶長十九年(1614)に板倉了以が自らの隠居場として創建したもので、板倉了以は保津川、富士川、天龍川、高瀬川等の大小河川を開削し船運の便益に貢献した他、徳川家康より朱印上を得て主にベトナムなどの南蛮貿易でも功績を挙げた人物である。

晩年はこの地に隠棲し、開削工事で亡くなった人々の菩提を弔ったという。

了以の念持仏であった御本尊の作者と言われる恵心僧都は往生要集を著して浄土思想を広め、ともに比叡山で学んだ浄土宗の宗祖法然や浄土真宗の宗祖親鸞に影響を与えた人物である。

本堂横には板倉了以の遺言によって作られた巨縄を巻いた形の円座(木彫り)に座し、法衣姿で石割斧(おの)を持った等身大の了以像も安置されている。

本殿、客殿は標高千メートル程の位置にあって「大悲閣道」と書かれた石碑の場所からは急な二百段程のつづら折りの石段を登らなくてはならない。

了以はこの十五分程のきつい登り道を浄土に誘(いざな)うアプローチとして世俗との退路を断つための手立てとしたのかもしれない。

又、恵心僧都が空也上人から学んだという「穢土を厭い浄土を喜ぶ心切なれば、などか往生を遂げざらん」と穢れの多い現世から浄土に生まれ変わることを強く望んだ「厭離(おんり)穢土(えど)・欣求(ごんぐ)浄土(じょうど)」とのメッセージなのかもしれない。

歌人吉井勇は尾道の千光寺で「千光寺の御堂へのぼる石段はわが旅よりも長かりしかな」と詠み、この大悲閣千光寺では「大悲閣君とのぼればほととぎす啼(な)きてかなしき夏木立かな」と詠んで、いずれも長い石段を登りながら意のままにならないこの世を思って足取りが重くなっている。

芭蕉も「花の山二町のぼれば大悲閣」とやや悟入しきれていないが歌を詠んでいる。

大悲閣千光寺客殿から京都市街を望む

懸造りの客殿からは対岸の亀山越しに東山三十六峰に抱(いだ)かれた京都の町を下瞰(げかん)することが出来る。

坂道で足はかなり重くなっていたが、客殿からのこの眺めに疲れもすっかり忘れさせてくれた。

遥か下を流れる保津川を下る観光船の櫓(ろ)の撓(しな)る「ギィー・ギィー・ギィー」という音が伝わって来る。

下の鐘楼で撞(つ)いた鐘の音が嵐山の谷あいに響き渡ったと思うと直ぐにその中に溶け込んで再び静寂がおとずれた。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

大人な遊び方ができる尾道において「尾道に来たら、ココだけは行って欲しい!」という、管理にイチオシの観光スポットを紹介しています。詳しくはこちらのページを読んでみてください。
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