銀山街道

江戸時代、石見銀山(島根県大田市大森町)で発掘された銀は、中国山脈を越えて瀬戸内海へと運ばれていた。

この銀を運んだ道を「銀山街道」と呼んでいる。

石見銀山は大永六年(1526)博多の商人神屋寿貞(かみやじゅてい)が日本海を出雲に向け航行中、銀峯山(仙の山)が銀色に光っているのを見つけ、採掘したところ銀の鉱脈を発見したものと言われている。

天文二年(1533)寿貞は銀鉱の精錬技術「灰吹法」を取り入れ、銀の現地生産を軌道に載せ、良質な銀を大量に生産するに至った。

生産拡大と共に、十七世紀前半の全盛期には、仙ノ山を中心に二十万人もの人が暮らしていた。

石見銀山などで産出された日本の銀は当時、世界で産出された銀の約三分の一を占めていた。

精錬された銀や銀鉱石は当初、銀山から約七キロ西に行った日本海沿いの鞆(ともが)浦(うら)(大田市仁摩町)の港まで運び出され、ここから九州博多へ積出されていた。

今も港には寄港した船の係留に使われていた岩をくりぬいた「鼻ぐり岩」が見られる。

銀の産出量増加と共に戦国武将の大内、尼子、毛利との間で銀山争奪戦が繰り返された。

永禄五年(1562)毛利元就の統治下になると、龍源寺間歩(まぶ)の前の道を西へ十二キロ、降露坂(ごうろざか)の峠を越えて、西田地区、清水地区、さらに松山地区を通り、リアス式の海岸で海が深く比較的波の静かな温泉津の沖泊(おきどまり)(大田市温泉津町)に運ばれ、ここから海上輸送されていた。

現在、この沖泊道の途中にある温泉津では街道の両側に二十軒ほどの古い町並みが細長く続いており、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

今も当時の風情がそのまま残っており、古くから湯治場として知られた源泉掛け流しの「元湯」と「薬師湯」の二つの泉源があり人々の憩いの場所となっている。

慶長六年(1601)、天下を統一した徳川家康は大久保長安を初代奉行として着任させ、石見銀山を天領とし、幕府の支配を強化した。

当初、銀は毎年十月中旬から十一月下旬の農民の農閑期に、前年採掘した一年間分をまとめて海上輸送で大阪に送られていたが、この時期の日本海は北西の風が強い上に時化(しけ)る日も多く、安定的に輸送が出来ないだけでなく波の荒い中での船の運航は危険が伴っていた。

そこで、大久保長安は、積雪はあるが海路より安全な陸上運送に変更しようと、運送のための道路や宿の整備を行ない、巾七尺(二・一メートル)、総延長三十五里(約百三十キロメートル)の銀の輸送路を完成させた。

銀山街道である。

これにより運上銀は中国山脈を越えて瀬戸内の尾道や笠岡に運ばれ、そこから大阪・京都に運ばれることになった。

銀の輸送は、幕府の御用として街道に沿った宿場の役目と責任において行われていた。

毎年、宿場周辺の村々から馬約三百頭、人足約四百人が借り出され、馬を持っていない者は自己負担で馬を調達し、滞在費も自己負担となっていた。

銀は十貫目(約三十七・五キロ)ごとに箱に詰められ、馬一匹に箱二つを乗せ、葵の紋の入った小旗をつけ、隊列を組んで運ばれた。(注・当時の馬は小さかったので背中に十貫、一つを積んでいたとも)

運上銀を運んだ街道は大森代官所を出発し、その大森の町並みを抜けて山中に入り美郷(みさと)のやなしお道の峠を越えて行く。

この峠は銀山街道の最初の難所であった。

この難所を抜け、急な坂道を下ると小原宿で、輸送隊は馬替えと昼食をとった。

銀輸送の当日はこの小原宿に大森からの一行とこれを引き継ぐ一行、併せて千人近い人々と多くの牛馬が集まった。

この小原宿からは江の川沿いを進み、牛馬の荷物を半分にしないと通れないほど道幅が狭い場所という名のついた半駄が峡(はんだがかい)の断崖を通り抜けると、江の川から別れ、赤名方面の谷に入る。

現在の国道375号線から県道166号線に入っていくルートである。

街道沿いには街道の崩落や人馬や荷駄の転落防止の為に根を張りやすいヤブツバキやカシの樹木が植えられた。

九日市(ここのかいち)の宿場

早朝に大森を出た輸送隊は、夕暮れに九日市(ここのかいち)の宿場に到着する。

ここが三泊四日の最初の宿場である。

本陣を原田屋、脇本陣を鍜冶屋に構えて、運上銀は本陣裏の御銀蔵(おかねぐら)に納められ、地元の百姓が一晩中寝ずの警備をした。

早朝には九日市を出発して赤名の宿に向う。
急な境木地区を登り切ると石見国と出雲国の国境となる。

その手前に酒谷口番所があった。ここは天領であった石見銀山領への出入口でもあったので、銀や銅の流出防止や銀製法の秘密漏洩防止などの為に、番所には幕府の役人が常駐していた。

しばらく平坦な道を進み、午前八時頃赤名宿に着き馬替えが行われた。

酒谷口番所跡 石碑

赤名宿は銀山街道と出雲街道が交わる宿場として栄えていた。
その後、輸送隊は瀬戸の一里塚を過ぎ、赤名峠に入っていく。

赤名峠は標高六百三十メートルの山陰と山陽、出雲と備後を分ける国境の峠で、ここも難所の一つであった。

今も峠には高さ一・七㍍の石柱に「従是南藝州領」「従是南備後国」と刻まれた国境碑が建っている。

峠を越えて備後国に入り、万右衛門坂を下っていくと付近に国境番所があった。

出雲街道最北の室宿地区を過ぎると再び仏ケ峠の山越えとなり、布野川沿いに進んでいくと布野宿である。

街道は布野を出て知波夜比売神社を過ぎ、神野瀬の渡しを渡って、山家の一里塚からのゆるやかな坂を下ると西城川に突き当たる。

ここから三次の町までは宮の峡と呼ばれる川に沿った崖の上を進む道になっていた。

午後十時頃到着した輸送隊はここ三次で二日目の宿をとった。

三次は山陰と山陽を結ぶ交通の要衝として栄えた町で、浅野三次藩の城下町であり、三次藩主の娘阿久里(あくり)は浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)(浅野長矩(あさのながのり))に嫁いでおり、現在鳳源寺(浅野家の菩提寺)には大石内蔵助のお手植えと言われる桜の古木と阿久里の遺髪塔がある。

三日目、三次を出発し、岩神の渡しを渡り、南畑敷にあった安国寺市を過ぎると三良坂の町に入る。

三良坂の町を抜け藤坂を登って峠を越えると吉舎の町となる。吉舎で昼食取った後、街道は吉舎から東に進み、宇賀峠を越えて甲奴に入る。

中山一里塚を過ぎ、宇賀の辻堂の先で尾道に向かって南下するルートと上下から府中を抜け笠岡に向って行くルートに分かれていた。

上下の町は幕府の天領として代官所が置かれていた。現在、上下の町の中心部は電柱の地中化を終え歴史的な町並みを保存しており、タイムスリップしたようでどこか懐かしい。

尾道ルートは広石を過ぎ、小童の頼藤に出て柴峠を越えると世羅町に入る。そして新山の東を回って三日目の宿泊地である甲山の町へと下っていく。

御銀蔵(おかねぐら)は現在の今高野山総門を入った右側にあり、そこで厳重に保管された。

甲山を出発してからは御調町「市」で馬の交換と昼休憩を取り、三成を過ぎて向山の峠を越えると尾道の長江の町並みが見えてくる。

そして尾道の十四日町(とよひまち)にあった本陣の笠岡屋が銀山街道の終点で三泊四日の輸送を終え、「運上銀」を引き渡せば輸送隊の任務は終了となった。(三次市地域振興部観光交流課資料参考)

運上銀が尾道に入る前日には、銀が運ばれてくる道筋を清掃し、火廻りが二人ずつで見回っている。又、夕方からは自身番は二人体制をとることになっていた。

十四時から十五時頃、運上金が本陣笠岡屋に着くと笠岡屋の裏門から運び入れられた。その際、町年寄泉屋善右衛門、鰯屋九次郎が立会い、銀高と銀箱の印符を改めた後、蔵に入れた。

蔵の錠舞を閉め、年寄組頭が扉に封印をし、鍵は泉屋善右衛門が預かった。その後、宰領衆(運上銀運搬の責任者)には笠岡屋で宴席が設けられ、広島藩より来ている銀送りの奉行も相伴した。

又、室津(兵庫県)への船頭にも別室ではあるが料理が振舞われている。

宴席は夜の十時頃まで続いたという。蔵の運上銀の警護は厳重を極め、蔵の西と東には不寝番で六人を配置し、笠岡屋も三人に警備を担当させた。

月行司の夜廻りは二人組で午後八時から二時間おきに見廻っている。一定の区域の家々には行燈(あんどん)を出させた。年寄与頭にも夜廻りを交代で行わせ、特に蔵の付近は念入りに巡回している。年寄組頭も深夜二時に巡回している。さらに下級武士にも巡回に当たらせている。

自身番は一箇所に四人に増員して警備を強化している。

天明七年(1787)、文化二年(1805)の記録では運上銀を運び入れた蔵の中に猫一匹を入れ、蔵を封印しているとの記録(広島県立文庫館蔵)も残っている。

ネズミが銀をかじらないよう猫に張り番させるとの意味なのかどうか、いずれにしてもそれほど銀の保管・管理には神経質になっていた。

翌日午前六時から七時頃、住吉浜(現在の住吉神社)で船奉行は蔵から出した銀高を確認後、受領した旨の証文を発行し、それまで町奉行が持っていた預り証と引き替える。

笠岡屋(小川屋)石垣跡

その後、運上銀は船に積込まれ、午前八時から十時頃室津に向け出帆している。

この船は「安芸守様の御船」とあることから広島浅野侯から使わされたもので、運上銀の多かった江戸初期から中期には百石積みの十端帆と十一端帆の二艘が利用され、一艘に約十石から十五石(千五百キログラムから二千キログラム)、二艘で約二十石から三十石(三千キログラムから四千キログラム)の運上銀が積込まれたという年もあったという。

やがて寛永元年(1624)頃から大森銀山での銀の産出量が減少していくが、銀山街道での輸送は徳川家が大政奉還する直前の慶応二年(1866)迄続いている。

尾道からの帰路は輸送隊には荷物がないので、行程が二泊三日で往路より一日早くなっている。

甲山で休憩をし、吉舎で泊まっている。

次の日は赤名に泊まり、小原で休憩をして、大森に帰着したようである。

無事に送り届けた安堵感で気持ちは晴れやかで足取りも軽かったでのであろう。

当時、尾道港は広島藩の外港として大阪蔵屋敷への年貢米等の積出港となっており、多くの豪商達の経済活動が活発であった。

笠岡屋(小川屋)は桃山・江戸時代にかけて大西屋(渋谷家)と泉屋(葛西家)に並んで尾道三大豪商の一つであった。

本邸が「本陣」に当てられており、大名、公家、幕府役人の宿泊所となっていた。

屋敷は南北四十八間、表六間、裏八間の坪数三百六十八坪の、本通りから米場町までの奥行の長い大豪邸で、玄関にはかって千光寺山城にあって尾道を支配していた杉原氏の木戸門を移築していた。

「銀座」発祥の地

明治三十九年(1906)、十七代目が亡くなられて以降、家は絶えてしまっているが、現在、笠岡屋の屋敷跡地脇は小川小路と名付けられている。

その小川小路には「本陣跡」の表示が建っており、屋敷蔵の石垣の一部も残っている。

又、市内には運上銀受渡しの役人が泊まっていたという出雲屋敷の一部も残されている。

船で室津に運ばれた運上銀は大阪を経て京都に運ばれた。

関が原の戦いが終った翌慶長六年(1601)五月、伏見城に入城した徳川家康は、後藤庄右衛門・末吉勘兵衛を銀座取立に命じ、伏見の大手筋と両替町通りの一角に銀座屋敷、政所を設置し、有力商人の座人が集められ、銀座会所、座人屋敷が建ち並んだ。

そして家康はここに大阪堺の銀商湯浅作兵衛常是(ゆあささくべえじょうぜ)(後の大黒常是)を呼んで慶弔豆板銀、慶長丁銀の鋳造を開始し、全国統一貨幣として流通させた。

慶長十三年(1608)伏見銀座はこのあと京都市中京区の両替町に移されるが、現在伏見を東西に走る大手筋界隈には当時を偲ぶ「銀座町」「両替町」の町名を今にとどめている。

京阪本線伏見桃山駅から大手筋を真っ直ぐ西に歩いていくとすぐに「此付近伏見銀座跡」と刻まれた石碑が右側に建っている。

この地こそ日本での「銀座」という名前の発祥の地なのであるが、大森銀山で苦労して掘り出された銀鉱石が、多くの人の手を介して、この地まで運ばれてきて貨幣にされていたのかと思うと、本当に「ご苦労さんでした。お疲れさまでした」と頭の下がる思いがする。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

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