西国寺

仁和寺と聞くとあの兼好法師の徒然草の一説「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ云々」を思い出す。

山の上の本殿を拝まずに帰ってきてしまい、悔しい思いをする話である。

その仁和寺は仁和二年(886)、第五十八代の光孝天皇の発願(ほつがん)により西山御願寺として建立されたことに始まる。

百人一首に「君がため 春の野に出て若菜摘む 我衣手は 露に濡れつつ」の和歌が残っている天皇である。

先帝の遺志を継いで、仁和四年に第五十九代宇多天皇が仁和寺を完成させた。
天皇自身の在位の年号をとって寺名とした我が国唯一の寺(御寺)である。

宇多天皇は醍醐天皇に譲位の後、仁和寺で出家され法皇となり、ここに一宇を設けて御座所として住まわれたため「御室御所」と呼ばれる。

以降、仁和寺には江戸時代末期まで皇子、皇孫が門跡(門とは天皇を指す)となり、門跡寺院として最高の格式を保った。

平成六年(1994)には世界文化遺産に登録されている。

仁和寺仁王門

仁王門前の石段の先がすぐにバス通りとなっており、アプローチが無く少し窮屈な感じがするが、この仁王門は知恩院、南禅寺の門と共に京都の三大門の一つとなっている。

他の二つと違って禅宗風でなく、あくまで和風の趣(おもむき)のある重厚な大門である。

中門を入ると右側に寛永二十一年(1644)に建立された御室のシンボルである約三十六メートルの五重塔が建っている。

軒周りは五層とも和様の三手先の組物で、垂木は二軒(ふたのき)垂木(たるき)で軒を構成している。

各層の屋根の大きさがほぼ同じ(逓減率(ていげんりつ)が小さい)という江戸時代の特徴を示しており、中央間は板唐戸、脇間は連子(れんじ)窓(まど)を置くなど純和風にこだわっている。

初層西側正面には大日如来を表す「アーク」の額を掲げている。

軒下隅の尾(お)垂木(たるぎ)の上で隅木を支える邪(じゃ)鬼(き)にも注目である。
中門の左側には約二百本余の御室桜が植えられている。

土質が粘土層の為、根を深く張ることが出来ず、桜の木の高さが三メートルと低い。

これが御室桜の特徴となっている。

青空をバックに桜の木の間に見え隠れする五重塔は名勝と呼ぶにふさわしい風景である。

花が低いことを「鼻が低い」ことにかけて「お多福桜」とも言われ、「わたしゃお多福、御室の桜、花(鼻)がひくうても、人が好く」と歌われている。開花はやや遅めの四月中旬頃で、毎年大勢の人で賑わっている。

五重塔を出て、右側正面が国宝の金堂である。

これは慶長十八年(1613)に造営された御所の紫宸殿を寛永二十一年(1644)にここに移築したものである。
紫宸殿としては、現存する最古の遺構である。

正面の蔀(しとみ)戸(ど)、妻戸の高欄等の飾り建具に宮殿造りの気品ある雰囲気を漂わしている。

本尊は阿弥陀三尊像で、中尊に阿弥陀如来座像、右脇侍(向かって左)に観音菩薩立像、左脇侍(向かって右)に勢至菩薩立像を安置している。

三尊像は宇多天皇が父帝・光孝天皇の等身大の像を作らせたと言われている。

又、内陣奥の北壁には阿弥陀来迎図が華やかに描かれている。

通常は非公開であるが「御室会館」の宿泊者は、早朝の勤行に外陣からの参加を許され内部を拝観することが出来る。

仁王門を入って左側が法皇の住まわれた御殿(御室御所)で、築地壁(ついじべい)の中に白書院、黒書院、宸殿、霊明殿の各室が庭園を取り囲むように瀟洒(しょうしゃ)な造りの廊下で繋がっている。

北庭は斜面を利用した滝組に心字型の池泉を配している。

木立の間からは茶室・飛濤亭(ひとうてい)や五重塔を垣間見ることが出来る。
この佇まいにここでしか味わえない凜とした雅(みやび)を感じとることが出来る。

京都で是非訪れたい場所の一つである。

仁和寺飛濤亭より五重塔を望む

尾道の西久保にある西国寺は真言宗醍醐派の大本山である。

聖武天皇の天平時代(729~749)に僧・行基が加茂明神の霊夢を見てそのお告げによってこの地に一宇を建立したのが始まりとされている。

その後、冶暦二年(1066)に本堂、五重塔以下諸堂をことごとく焼失し、しばらくは修造もされないままになっていたが、承保年中(1074~1077)に性(注2)信僧正の夢枕に白(注1)河天皇が立って「備後の摩尼山と言う所に行基菩薩が草創したという霊場があって、多くの仏閣で沢山の僧が我が国の国体護持を祈っていたが、焼失してしまって仏は悲しみ、僧は法事に倦(う)んでいる。

悲しいことである。
よって堂舎を復興して神明の加護を祈るべきである」と告げられた。

性信僧正はこの霊夢を白河法皇に申し上げたところ、白河天皇より西国寺再建の勅命が下され、僧・慶(注3)ばんによって永保元年(1081)に着工され、金堂の本尊・薬師如来座像の他、仏像・堂舎が整い修復がなった。

この薬師如来座像は讃州国・善通寺からの到来品で平安時代の作と言われ、現在、重文指定の秘仏となっている。

次の年、永保二年に白河天皇の祈願所となった。
又、この前後に西国の鎮守社として王城鎮護の加茂明神を勧請している。

応徳三年(1086)、白河法皇による院政が始まると西国寺には多くの荘園が寄進された。

天仁元年(1108)には白河法皇の勅願寺となり、官寺として百寺を超える末寺を持つに到っている。

その当時、西国寺は京都の仁和寺の末寺となっており、住職は仁和寺門主の指令によるところとなっていた。

仁安元年(1166)、後白河法皇から「白河」「堀河」「鳥羽」「近衛」「二条」「六条」「後白河」の七帝の菩提を弔うための不断経修行の命が下り、毎年七月七日から十七日間夜間執行されている。

この院政の全盛期に西国寺は官寺として院の力を背景にして大いに栄えた。

鎌倉時代になると正和元年(1312)と同三年の二度にわたって、花園天皇(持明院統・第九十五代天皇)から尾道浦を西国寺が知行すべしとの綸旨が下されている。

守護や地頭の力が西国寺領の尾道浦に及ばないようにとの配慮である。

永和年間(1375~1378)、再び火災により堂塔は灰燼に化したが、宥(注4ゆう)尊(そん)らの努力によって、至徳三年(1386)、金堂が復興し、永享年間(1429~1440)には備後国の守護山名時熙(やまなときひろ)、持(もち)豊(とよ)(宗全)親子を始めとする山名一族により諸堂が再興されている。

山名氏は備後国を含め十二カ国の守護職を兼ね、当時全国は六十余州であったことから「六分の一殿」とも呼ばれ、絶大な権力を有していた。

永享元年(1429)には足利六代将軍・足利義教によって、山の上に立つ優美な三重塔が寄進された。

しかし、室町末期から桃山時代にかけて、武家により西国寺の荘園が侵略・略奪され、寺運は衰退していく。

江戸時代初期には領主・福島正則によって寺領が没収されて西国寺の経営は危機的な状態となった。

江戸時代後期には、末寺もずいぶん減ってしまったが、尾道市内の善勝寺、大山寺、千光寺、因島の観音寺、福山市の蓮花寺など、それでも二十三ケ寺が末寺として残った。

藩の重要な祈祷の際には読経修行の命を受けるなど格式を保っていたのである。

幕末の動乱期には回天軍・神機隊に属する捷(しょう)神隊(しんたい)(民兵の倒幕隊)がこの西国寺に駐屯し、寺域は荒れるにまかせていたが明治以降復興を重ね、昭和四十年代以後の大修理によって今日の盛観を成すに到っている。

注1 白河天皇(1053~1129)
第七十二代天皇・在位(1073~1087)・応徳三年(1087)に上皇となられ、嘉保三年(1096)には法皇に即位された。摂関政治の混乱に乗じ、四十三年間にわたって院政を敷き、政治的な権限を掌握し専制的な政治を行った。熱心に仏教を信じ、現在、岡崎と呼ばれている場所に法(ほっ)勝寺(しょうじ)や白河北院殿さらには、京都市立動物園の位置に約八十一メートルの高さの八角九重の塔などを造営、その他多くの仏像を造らせた。絶対的な権力を持つ白河法皇であったが「賀茂川の水(よく氾濫した)、双六(すごろく)のさい、山法師(比叡山の僧侶)」の三つは「天下三不如意」と言われ、手に負えなかった。

注2 性信法親王・性信僧正(1005~1085)
父は三条天皇で第四皇子。仁和寺の済(さい)信(じん)大僧正(954~1030)について剃髪、出家している。仁和寺の第二世門跡。空海の再来と称され大御室(おおおむろ)と言われた。西国寺の再建を成就させたいと願われていた。持仏堂の額「西国寺」は僧正の筆による。

注3 僧慶ばん(西国寺中興の祖)
もともとは京都の人で俗姓は「高橋」と言った。十三歳の時、西国寺の阿慶上人について出家、十九歳より南都で仏教、更に高野山で密教を学んだ後、京都仁和寺の性信和尚について修業を積んだ。さらに醍醐寺の勝覚僧都に法を授かった。その頃西国寺が焼亡したので、白河天皇は慶ばんに対して再興の勅命を下した。西国寺には慶ばんが白河院から賜ったという金剛五鈷鈴、五鈷杵を蔵している。境内の「持善院」は慶ばんが隠居した塔頭。

注4 宥尊上人
永享年間の西国寺の中興の祖である。

西国寺山門(仁王門)

西国寺仁王門(尾道市西久保町)

室町時代末期の楼門形式の仁王門。
三間一戸、入母屋造、本瓦葺。

元文五年(1740)尾道の豪商泉屋新助による大修理の棟札が残っている。

軒の下には健脚にあやかろうと二メートルほどの大きな藁(わら)草履(ぞうり)も吊るされている。扁額「摩尼山」は小松宮彰仁親王による筆跡である。

仁王像も楼門と同時代のものであろうと言われている。

小松宮彰仁親王は幕末期仁和寺の第三十世の最後の法親王となられた純仁法親王で慶応三年(1867)、王政復古の号令とともに還俗して、仁和宮嘉彰親王となられ、征討大将軍として東征された。

その時、仁和寺の霊明殿の水引を旗に仕立てて出陣した。
これが「錦の御旗」である。

出陣の親王を仁和寺までお迎えに来た西郷隆盛が乗ってきた馬を繋いだ松の木が仁和寺仁王門前にあった。

西国寺金堂

行基菩薩の開基と伝えられる。

度々の火災により焼失し、現在のこの建物は南北朝期の至徳三年(1386)に備後の守護山名一族によって再建されたものである。

正面蔀度の桁行五間、梁間五間の単層で、入母屋造の妻飾りは二重虹梁大瓶束で雄大である。

反り返りの伸びやかな屋根は重量感があり規模も壮大である。和様を基調とした唐様との折衷様式で、復古調の建築様式である。

堂内内陣の来迎壁は再建当時の壁面と思われる。
壇上には黒漆塗りの見事な春日厨子が安置されている。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

大人な遊び方ができる尾道において「尾道に来たら、ココだけは行って欲しい!」という、管理にイチオシの観光スポットを紹介しています。詳しくはこちらのページを読んでみてください。
>>管理にオススメの観光スポット