大田庄

JR呉線に忠海という名前の駅がある。

この名前の由来は平安時代末期、平清盛の父・平忠盛が瀬戸内海にはびこった海賊を鎮撫したということから名付けられたと言われている。(諸説あり)

藤原政権の末期、天皇・院庁・摂関家など政治的主役不在の中で、武家の棟梁である平氏と源氏とが覇権を争っていたが、平氏は保元の乱・平冶の乱を制して源氏を倒し、その武力を背景として勢力の拡大を図っていった。

一方、地方の豪族達は律令制度の乱れに乗じて国衙領を私物化して領主となって、農民と領地を支配していった。

さらに彼等は乱世を生き抜く為、勝ち組である平氏を領家とし、その荘園を差し出して年貢を納めることで、我が身の安全を担保し自らは荘園の下司として、実質の権利を持って今まで通り支配を続けた。

こうして平氏の知行地は日本国内の半分近くを手に入れることとなった。

こういった寄進系荘園の一つが橘氏から寄進された大田庄の荘園で、平清盛は五男の重衡(しげひら)をこの荘園の領主とした。

大田庄は尾道市から北へ約四十キロにある現在の世羅町の東部から府中市上下町・三次市甲奴(こうぬ)町・同市吉舎(きさ)町の一部までまたがる広汎な地域(約六百九万㎡)に及んでいた。

永万二年(1166)、平重衡は大田庄を時の権力者・後白河法皇に寄進している。

ちなみに、父親である平清盛は長覚二年(1164)、後白河法皇の勅願により蓮華王院(三十三間堂)を寄進しており、大田庄の寄進も平清盛の指示によったものであったのであろう。

仁安二年(1167)には平清盛は太政大臣に就任し、次の年に厳島神社を改修している。

後白河法皇法住寺陵

仁安三年(1168)十月、京都在住の備後の国司・藤原隆雅へ大田庄の在地の荘官が「大田庄には適当な倉敷地がないので、年貢米を運び込むのに難渋している。よって尾道村を倉敷地に指定して欲しい。ついては倉敷地を管理運営するために、田二丁・畑三丁を免税地としてもらいたい。」との訴えに対し、翌年、了承したとの決裁をしている。

これは大田庄から院庁に年貢米を京都に運ぶことによって出てきた問題に対する下文(決定文)である。

さらに、仁安四年(1169)、藤原隆雅は大田庄・新しく組み入れられた斗帳郷(現世羅町)及び尾道村倉敷について「国使をつかわし、四(しい)至(し)に傍示を打たせるから承知するように。」との連絡をしている。

(四至とは東西南北の境界、傍示とはその境界を明らかにするための標識(石材)である) 嘉永元年(1169)、十一月二十三日に院庁からこれらのことが正式に決定されている。

このことは尾道村が大田庄の荘園の年貢米を積み出しする為の倉敷地として認可されたということである。

海商港としての尾道の誕生である。

又、注目はこの下文の中に、「重衡の解状(訴え)によれば、早く尾道村を倉敷地にして御領にすべきだ。」との内容が書かれていることである。

平重衡がこのことをしかるべき人に陳情していたということになる。

平重衡といえば冶承四年(1180)、奈良の東大寺・興福寺を焼き討ちした張本人である。

大仏殿の大仏の台座の一部だけを創建当時のままに今に残して焼け落ちてしまっていることを、東大寺に行って大仏の大きさに感心しながらも、そのことを残念に思う時、平重衡に対するダーティなイメージが払拭出来ないでいた。

しかし、この認可が現在の尾道の歴史と文化を築いてきた端緒になったことを思うと、尾道市民にとってたとえ父平清盛の指示であったとは言え、平重衡を改めて見直さなくてはならないであろう。

ともかく平重衡の訴えは承認され、大田庄からの年貢米を尾道村の倉敷地から京都へ積み出すことになった。

平家は預家として全国の荘園から年貢米だけでなく、平清盛は宋との貿易でも巨万の富を手にするが、平家の豪勢ぶりは長くは続かなかった。

「平家にあらずんば人にあらず」から「驕(おご)る平家久しからず」である。

文治元年(1185)、平家は再び台頭してきた源氏によって壇ノ浦の藻屑(もくず)と消えて行った。

平家の持っていた全国のほとんどの荘園は後白河法皇領となった。

その後、後白河法皇は文治二年(1186)、平家の怨霊を慰めることと法皇のために身命を擲ってくれた武士の霊を永代に供養するため、大田庄をその財源を生み出す領地として紀州高野山根本大塔へ寄進した。

以後、大田庄は高野山を本家職(ほんけしき)とする荘園となる。

高野山は弘法大師空海が真言密教の聖地として建てた霊場である。
大田庄が高野山領になると、尾道村の倉敷地も高野山領となった。

年貢米もいままでの京都から高野山へと送られる事となった。

大田庄からの年貢米として生産される1838石(二百七十五トン)は、宇津戸~御調町公文~市~畑~市原~三成~尾道のルートで牛馬の背に乗せて運ばれ、尾道村の倉敷地から紀州の港、そして高野山へと送られていった。

後白河法皇の勅願所でもあった浄土寺(尾道市東久保町)が大田庄の年貢米の請所を預かる別当職も兼ねた寺院として、建久七年(1196)五月、高野山より僧(ばんな)・上臈四人が預所として庄務遂行のため派遣され、浄土寺に居住して年貢米の収納事務を行った。

又、大田庄の現地にはこれより少し前より政所寺院として今高野山龍(りゅう)華寺(げんじ)を創建し、強力な在地支配を進めた。

本山と同じ「高野山」と名が付くことからも全国の高野山の領地の中でも大田庄は石高も多く重要視されていた。

又、山内に高野山から勧請した高野山の地主神であり守り神である丹生(にう)神社も鎮守として祀られ、境内東にある塔の岡には元享三年(1323)、本家の高野山にある「根本大塔」を模した多宝塔型の仏塔が建立された。

高野山の存在と勢力を強く印象付ける示威(しい)行為であった。

今高野山参道

建久三年(1192)、鎌倉幕府が成立するが、源頼朝はこれに先立って全国に守護・地頭を置き、皇室・公家・社寺の経済的基盤となっている荘園制度を打破し、政権を磐石ならしめようとした。

元暦元年(1184)、備後の守護に平家討伐で軍功のあった御家人・土肥実平をあてている。

建久七年(1196)には源頼朝は問注所執事の三善康信(善信は法名)を大田庄の地頭職として送り込んでいる。

倉敷地として承認以来、尾道浦は年貢米輸送の港湾として形態を整えていった。

もちろんこれは大田庄の荘園を武家の侵略の手から守っていた院政や高野山という後ろ盾があればこそであった。

幕府の政権が安定し始めると、領家(預所・下司・公文)対鎌倉幕府(守護・地頭)の対立が鮮明化してくる。

年貢の徴収権を持つ国レベルの地頭が、取り立てた年貢や土地を横領・侵略していった。

領家の高野山側も対抗処置として久代氏の出身と推定される辣腕の和泉法眼を預所に任命し、地頭と対決させるが、法眼は自らの私腹を肥やし、百姓等に不正を訴えられて失脚した。

今高野山には今も久代氏の墓とされている大型の五輪塔が残っている。

高野山側は備後に入ってきた山名氏にもたのんで大田庄を支配しようとした。

結果、荘園制度を打倒するという幕府の目論見から外れ、逆に地頭や守護勢力の肥大化、ひいてはこれが幕府の権威の低下に繋がっていった。

文永七年(1270)の高野山文書資料に本来領家(高野山)の収入であるべき尾道浦の津料(港湾使用料)を地頭が着服していることに対しての和解上状が残っている。

このことからも国と荘園レベルの争い、強欲な地頭の姿が見て取れる事と、これまでの尾道村という記述が尾道浦となっていることで尾道が既に相当な規模の商港として発展を遂げてきているということを物語っている。

文永・弘安の蒙古来襲に対する幕府の失政は地方の守護に反幕府の方向に梶(かじ)を切らせた。

そうした中で、元応二年(1320)、備後の守護である長井貞重(六波羅の評定衆)が自らの管理地である尾道を襲い、政所・社寺・民家約一千軒を焼き払ったという事件も発生しており、幕府の権威が衰退していった。

こうした中、後醍醐天皇が倒幕の狼煙を挙げた。

倒幕がなって天皇新政は一旦成功したかのように見えたが、平安朝の醍醐天皇の冶世(延喜の冶)の時代を理想とする天皇は論功行賞を公家側に厚くする政策をとったため、それまで命を懸けて戦い抜いてきた武家方に不満が噴出した。

武家方は清和源氏の嫡流として日本中の武士の棟梁であった足利尊氏を担ぎ上げた。

後醍醐天皇は浄土寺に天長地久の祈祷を命じ、守護・地頭に押され気味であった大田庄の庄務は高野山領であることを認め、鎌倉幕府の息のかかった地頭職を罷免して、地頭職も高野山に寄進している。

元弘三年(1333)十一月、滅び去った執権北条高時の弟四郎の知行地であった因島の地頭職を冶国平天下の祈願の賞として浄土寺に知行させている。

このことは、尾道・因島を後醍醐天皇が戦略上重要な拠点として考えていた証左であり、当時尾道浦が瀬戸内海でも商港として確実に発展していたことを裏付けるものである。

元応元年(1319)には人口が五千人を超える都市となっており、問丸・梶取といった海運業者や商人達により、瀬戸内海を代表する港町へと変貌を遂げていった。

建武三年(1336)、足利尊氏は得良郷の地頭職を浄土寺に寄進しており、暦応元年(1338)、足利幕府を開いた尊氏もその点では後醍醐天皇と考え方は同じであった。

尾道浦を対外交易港として外護した。
特に尊氏反転のきっかけとなった尾道浦には特別の思い入れがあった。

足利尊氏は夢窓疎石の進言により吉野でなくなった後醍醐天皇を弔うために、天龍寺(京都市右京区嵯峨天龍寺)を創建しているが、幕府は、その造営費用を途絶えていた元との貿易収入でまかなうため天龍寺船を就航させたほか、正平二十二年(1367)には大田庄の桑原方の六ケ郷と尾道浦倉敷地を造天龍寺領としている。

もちろん天龍寺船は尾道浦を中継基地して交易をしていた。

幕府を開いたものの尊氏は南北に別れた政権、兄弟親子の対立とその政権はきわめて不安定であった。

高野山領として広大な荘園を誇った大田庄も備後国の守護・山名氏の権力の拡大や地方豪族(国人)達の台頭に伴って、次第に疲弊の一途を辿っていく。

元中元年(1384)、備後国の守護・山名時義が軍費を借り上げるため、大田庄の七ケ郷を一定期間取り上げる「半済法(はんぜいほう)」が実施されている。

応永二年(1395)、足利義満は大田庄の桑原方の六ケ郷と尾道倉敷地を高野山西塔に寄付をしている。

院政時の約束(寄進先の対象)を勝手に変更してしまっている。

義満の狙いがどこにあったか確かではないが、一説には山名氏の勢力を削ぐためとも、高野山の僧兵を義満側に抱き込むためであったとも言われている。

又、応永九年(1402)備後の守護・山名時熙(やまなときひろ)が大田庄の年貢を一千石で請け負う「守護請」が成立しているが、未納が続き、高野山へはわずかしか納入されなかった。

「高野山文書」では応永九年(1402)から永享十一年(1439)までの三十六年間に二万六百石余の年貢が未納になっていると書かれている。

永享十二年(1440)高野山側がこの未納の件について守護山名氏にクレームをつけるが、実質は山名氏が略奪していて、うやむやになってしまっている。

記録では寛正五年(1464)が高野山に大田庄の年貢米が送られている最後となっている。

ただ永享年間(1429~1440)には高野山領大田庄の年貢米を輸送する船舶だけでも尾道浦船籍の船の数が四十五隻もあったとある。

こうした中で、幕府が開いた天龍寺船や応永十一年(1404)の勘合交易船団も尾道浦が中継港となって荷さばきが行われ、尾道浦は活況を呈している。

こうして山名氏は権力にものを言わせ、大田庄の一部を軍功として国人に与えたりしており、大田庄は山名氏が完全に支配するところとなった。

守護山名氏も本国は但馬(兵庫県北部)であり、在地の支配は地元の有力者であった山内氏などに「代官職」を任していたが、国人間の勢力争いの中で、山名氏の下で備後の守護代として双三郡の吉舎から南下してきた和智氏が今高野山の背後に山城を構え、世羅郡一帯を支配する力を持つようになる。

山名氏が衰えると共に毛利氏と並ぶ戦国大名として更に勢力を拡大していく。

大田庄の所有権をめぐっての備後における応仁の乱が応仁二年(1468)、小世良と川尻で合戦が行われ、この頃には高野山への年貢米輸送は途切れており、実質的には大田庄は消滅している。

享禄元年(1528)以降、大田庄は和智氏と結んだ毛利氏の領国に組み込まれている。

院庁時代より大田庄の年貢米の積出港として出発した尾道村が、大田庄を契機として時の権力の思惑のなかで翻弄されながら又、ある時は権力を巻き込みながら、物流の拡大、物産の集積、貨幣経済への進展、問丸の成長等、国内外の交易の拠点として、飛躍的に発展をしてきた姿を見ることが出来る。

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