山口玄洞

大正十一年六月、尾道市役所に奥山助役を訪ねてきた一人の禅僧があった。

墨染(すみぞ)めの黒衣に網代(あじろ)笠(かさ)、脚(きゃ)絆(はん)に草鞋(わらじ)履(ば)きという托鉢(たくはつ)姿(すがた)の旅僧があった。

僧侶の言うところでは「百万円ばかり寄贈したいという篤志家があるのじゃが受けてくれるか?」という。

調べてみると、墨染めの旅僧は遠江引(おうとおみい)佐(さ)郡(ぐん)奥山村にある臨済宗方広寺派の管長間宮英宗和尚で、百万円の寄付者は尾道出身で大阪の豪商山口玄洞翁であった。

この時何か希望条件はと言う申出に対し、翁は「わずかばかりの浄財の喜捨(きしゃ)であるから一切無条件でお願いする。強いて条件と言うならば水道料は日本一安いものにして欲しい。」ということであった。

翁にとってこの徳行は仏教的信仰の具体的な表れで、ただ仏恩奉謝の一語につきるものであった。

大正十四年、上水道が完成した時、翁の胸像を作らせてもらいたいと申し出たところ「そのようなものの欲しさの寄贈では無い」と一喝された。

強いてと願ったところ祖先以来家敷鎮守であった蘇和(そわ)稲荷社(いなりしゃ)を神社に昇格し、適当な位置に祀り替えすることに協力してもらいたいとのことであったので、当時の海岸通の雑踏(ざっとう)の中から現在の尾道駅前に移したのであった。(新修尾道市史)

その時の事情について昭和三十六年(1961)十一月、山口商店創業八十周年記念史発刊に際し当時の尾道の青山俊三市長が書簡を寄せているので少々長文であるが紹介したい。

「本市は日常生活に最も密接な水には恵まれず私達の祖先は何百年もの長い間水には一連の悩みを持っておりました。

これは水源としての川を持たぬという立地的悪条件下におかれていたためではありますが、水が日常生活に欠くことが出来ないものであると同時に、また都市構成上からも必ず必要であり、その発展は水に大きく左右されるからでもあります。

明治、大正と時代の推移に伴い商都としての市勢が次第に膨張するに従い、水不足は益々窮迫の度を加えて参りました。

その結果ようやく大正八年、これが解決策として、上水道建設事業が計画されるにいたりました。

当時本市市議会は総工費百四十五万五千円を発議議決しましたが、この計画はまさに百年大計のともいうべきものでありました。

上水道としての水源を持たぬ本市は水源を求めるうえにも、また財政的にも一大難事業としてその前途があやぶまれたことは想像に余りあるものがあります。

ところが、この事情を聴取せられた翁は直ちに建設費の殆んどを寄付する旨を申し出られ、百数万円もの巨費をご寄付下さったのであります。

全市民はこぞってその恩恵によって工事は日に日に進展し待望の大工事はついに大正十四年四月、一村を超えた御調郡深田町大字久山田に見事に完成したのであります。

以来尾道市民は、常に清浄な水の恵沢(けいたく)が受けられるとともに、今日の上水道行政の基盤はこの時に確立されたのであります。」(山口玄八十年史による)

水源地に立つ澍甘露法雨の碑

山口玄洞氏は文久三年(1863)十月十日、尾道の久保町(尾道市久保二丁目のポプラの横から西国寺へ通じる「西寺小路」沿い)の医師山口寿安の長子として生まれ、幼名を謙一郎と言った。

文久三年といえば、孝明天皇が攘夷祈願のため加茂社へ行幸するにおよんで幕府として恭順を示すために徳川家(いえ)茂(もち)が上洛している。

又、その前年には会津藩主松平容保公が京都守護職に就任しており、日本が大きく移り変わろうとする時代であった。

父寿安は漢学者であり信仰心がことのほか深く、医は仁術なりと貧しい人々には診療を施し、薬を与えても決して料金は受け取らず、そのため家計はいつも火の車であった。

父は折にふれ謙一郎に宗教的信念に裏付けられた仏教の有難さや聖人や賢人の教えを読み聞かせた。

謙一郎が九歳になった時岩城島(愛媛県越智郡岩城村)の漢学塾「知新学校」で学ばせた。

離れて暮す謙一郎に父は機会あるたびに愛情あふれる手紙を送り、恙無い(つつがない)学業の進展を願った。

この父の愛情はその後の謙一郎の精神的な支柱となり、いろいろな場面で大きく影響を与えることとなった。

しかし、謙一郎が十五歳になった時、父が亡くなり学業は放棄せざるを得なかった。

謙一郎は荷車を引いて行商して歩き廻り、母や四人の弟妹の生活費を稼ぎ出す血の滲むような苦労が始まった。

しかし、その日暮らしを続けるそのような生活では前途に希望や夢を抱くことなど到底出来る相談ではないと、母に商都大阪への出郷を懇願した。

明治十一年(1878)、母はついに十六歳の少年の願いを応諾した。
いよいよ故郷を去るにあたって謙一郎は尾道浄土寺の本尊である十一面観世音菩薩に「只今より故郷を出立いたします。

何卒加護を加え賜え、この心願が成就されたならば浄土寺に銅の灯籠を奉納致します」と祈った。

大阪に出た謙一郎は本町四丁目の土居善洋反物(たんもの)店に奉公し、店では「清助」と呼ばれた。

彼は熱心に仕事を見習った。
何事にも熱中する性質(たち)であったので店主からも次第に認められるようになった。

しかし、明治十四年、十九歳の時土居反物店は閉店してしまう。

が、翌十五年に得意先の応援もあり、清助は伏見町五丁目に間口一間半の小さな家を借り、洋反物商山口清助商店を開業した。

店の備品としては一円二十銭の帳箪笥一本と算盤、それに長帳簿の三点しかなかった。

それでも、彼の奮闘努力の結果、商店の基盤は次第に堅固なものになっていった。

明治二十五年、店を淡路町五丁目に移し、妻政子を迎えた。
清助三十歳、政子二十三歳であった。

明治二十七年、日清戦争が勃発し、山口商店が扱う洋反物は軍需品としてどんどん買い上げられた。

明治二十九年、三十四歳になった清助は名実ともに山口家四代目を継ぐことになり父祖以来の玄洞の名を襲名した。

明治三十一年に大阪でも一等地であった本町三丁目に土地を買い、始めて自らの店を新築した。

明治三十四年五月には実に二十四年ぶりに故郷の尾道に帰り、菩提寺西国寺の父の墓前に香花をたむけ、その足で尾道市役所に市内女子高等小学校へいきなり一万円の寄付を申し出た。

当時は市の職員の月給がまだ十二円そこそこであった時代のことである。

さらに西国寺へ上る参道のかたわらに水屋を寄進し、田能村直入(田能村竹田の養嗣子(ようしし)。

京都府画学校の校長)に頼んで雲龍図を描いてもらった。
この頃には既に山口家の財産はかなりの額にのぼっていた。

明治三十七年には多額納税者の互選の結果、貴族院議員にも当選している。
実業界においても幾多の役職に就いて、その手腕を振るっている。

山口商店は著しく事業が拡大し、大正元年(1912)十二月、備後町四丁目に大店舗を新築した。

しかし、大正七年、若い頃の無理がたたったのか健康を害し引退を決意。

京都河原町の本邸で静養することとなった。
五十六歳の時であった。

引退後は信仰生活に入り、翌大正八年には念仏の三味境(さんまいきょう)(仏道修行に専念する)に入った。

一方では京都紫野の大徳寺で禅宗の宗風にも傾倒しはじめ、念仏と禅とを併修した。

昭和十二年一月九日、枕元に会社関係者を呼び「従業員は自己本位ではいけない、自己を捨てることが自己の向上、成功のもとである。

薄利は商人の秘訣で、投機的な商売と仲買人相手の商売はあくまで避けるように」と告げて大往生を遂げた。七十五歳であった。

本葬は大徳寺法堂で執行された。この時供された点茶には尾道の上水道の水が用いられている。

山口玄洞氏墓所

納骨は大徳寺山内龍翔寺で行われた。
そして尾道西国寺に分骨がなされている。

玄洞氏はその事業活動で得た資産の多くを公共事業に寄付する形で社会に還元した。

故郷尾道に対する寄付の内、最も大きいのは尾道市実業補習学校の設立と尾道上水道事業への寄付(当時の技術水準であれば現在の金額で四千三百億円程)である。

奉納を約束した浄土寺にも大正十三年、本堂前に青銅製大灯篭を奉納している。
(残念ながらこの大灯籠は戦時中に供出されてしまった)

京都本邸に引退してから二十年の間に建立・寄進した建築物・堂塔は大変な数になる。

京都新聞社が明治百年の企画連載として十日ほど玄洞氏のことを連載したが、その内三日までは寄進した寺の名前ばかりであったことからもその凄さが窺い知れる。

山口玄洞氏座右銘「明明徳」

その中で醍醐寺の大講堂、神護寺の金堂、延暦寺の阿弥陀堂の三つは昭和年間の三大建築と言われており、塔婆の建築では静岡県引佐郡奥山の方広寺三重塔、比叡山横川の如宝塔、広島県三原市の仏通寺多宝塔、神護寺の多宝塔は特に優れていると言われている。

尾道千光寺山の「文学のこみち」には山口玄洞氏の自筆による生前翁の座右の銘ともいうべき「明明徳」(明徳を明らかにする)の文字を刻んだ石碑ある。

この言葉の出典は中国の古典「大学」で、「人間は生まれながらに霊妙(れいみょう)(人知で測り知れないほど優れている)な徳性を天から授かっているのだから、それを曇らせてはならない。」という意味である。

心したいものである。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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