尾道の謎

地元の旬刊誌備(注2)後経済レポートの「尾道の謎」という連載で、尾道に「御所」という地名があることこそ「謎」であるとのレポートを瀬戸康男氏が発表されていた。

三年前に京都から尾道に引っ越してきた私は、京都に暮していた時「御所」という言葉を都が東京に奠都されるまでは「天皇さんが住んでおられた場所」という程度で、特に深い意味など考えずに使っていたのであるが、瀬戸氏は「御所とは天皇が住まわれる場所であって天皇、皇族以外に使うことが出来ない。

京都御所 建礼門

あの足利義満の「花の御所」でさえ天皇に許可をもらって使っていたという。

天皇と関係する所が尊敬を込めて「御所」と呼ばれたのであるからあだや(・)おろそかに「御所」と名乗ることは出来ない」と述べておられた。

しからば、何故尾道に「東御所」「西御所」の地名が残っているのか。

「尾道」と「御所」一体どんな関係があるのだろうか。

尾道の郷土史家財間八郎氏はその著書「落葉かご」の中で「師(注1もろ)守記(もりき)には足利尊氏の時代である貞和元年(1345)の頃、既に「備後御所崎」という地名が見られる。

しかし、ここでいう「御所」とか「御所崎」は持光寺山の南端が海へ突き出たところを御所崎と呼んだのだから、現在の土堂町の一角をさしたものである。

又、安永三年(1774)の安永の絵屏風(浄土寺保有)などで見ると、現在の御所町は全く海の中である。

しかも、その頃、巌通川と栗原川から流出する土砂の量は莫大なもので、港湾を生命線としてきた尾道にとって港としての使命を果たすことが出来なくなってきた。

そこで、明治二十年(1887)、流出した土砂によって埋没した栗原沖をさらえ、東・西御所及びその東部の海岸を埋め立てた」と現在の御所町のなりたちについて述べられているが、何故「御所」なのかの理由については追究されておられない。

宝土寺(東土堂町)の古文書には「大日本国備後州御調郡栗原保尾道之浦御所崎宝土寺信心大檀那橘信吉 長享三巳酉年仲」とあり、応仁の乱終結後の長享三年(1489)頃には「尾道の御所崎」という地名が示されている。

又、「栗原保」ということから、この辺りには朝廷の所領である「大炊寮」があったことが記されている。

新修尾道市史で青木茂氏は現在の御所町が新しい埋立地であることを承知された上で「南北朝時代栗原、吉和、向島、御所崎は朝廷の荘園であった。

そこで、これらの荘園から朝廷へ熟食米が京都に送られていた。

そうすると、御所の食糧を扱う在京の中原氏に代わって、現地責任者である中原氏の荘司がここのどこかに定住していたはずである。

そしてそのために熟食米の積出港が必要となる。

この積出の地域を想定してみると、栗原にも吉和にも適当な場所がない。
その港としては御所の地名あたりが格好の場所になる。

ここにその業務を扱う下級役人が駐在していたはずである。
その居宅を土地の人は尊称して「御所」と言った。

この地名がそのまま現在に残って「御所町」となっているのではないか」と私的仮設をたてておられる。

これに対して瀬戸氏は、亀山志綱筆の「尾道志稿」(文政八年(1825))に「土堂町の荒神宮は古き鎮座のよし、其の年代分かりがたし。古老曰く、当社は舎人親王を祭れり、故に此のあたりは御所と唱えるよし。

されは神号も古代は皇神と書きしを後、荒神にかへしならん。

蓋、以前は僅の小祠なりし由、地面を築上、今の社を造営せしは百年前のことなり」とあることから、荒神宮ではなく皇神宮であり、今の荒神堂小路は皇神宮への参道であったとしておられる。

又、瀬戸氏はこの尾道で「御所」の地名を使ったということは、天皇の在所(ざいしょ)であり、大同十年(815)に創建された艮(うしとら)神社(じんじゃ)(尾道市長江一丁目)は鬼門を守る神社として、ほぼ同じ頃、この「御所」に舎人親王を祭神とする皇神社(皇神宮)が出来たのではなかろうか」と推論されている。

「兎に角、舎人親王の神社が江戸時代の後期まで残っていた。舎人親王を神として祀る神社は全国でも極めて稀である。であるから舎人親王がこの尾道に在していたと考えるのが道理なのだが、そのような資料は見つからなかった」と述べられておられる。

確かに、荒神堂の地名の由来となった「荒神宮」は、江戸後期・文政の町絵図では本通りから小路へ下る角地、現在は八百屋さんが位置している場所に見える。

現在はこのお宮さんは艮神社の境内に移設されているが、この御祭神は火の神・竈の神としての荒神様と、素戔嗚命の神が合祀されているばかりで、残念ながら舎人親王はそこにはお祀りされていない。

但し荒神堂小路の南西側にある「からさわ」さんの辺りを、古老は「御所浜」と呼んでいるものの、「御所町」は尾道駅の西側でこの辺りは「御所町」とはなっていないのである。

尾道市「御所」地名表示

歴史書によると舎人親王は養老四年(720)に日本書記を編纂して、日本で最初の学者として学問の神様とされており、天平五年(735)、六十歳のときに平城京で亡くなっている。

ちなみに、舎人親王をお祀りしている神社は全国的にも少ないが、その一つが勝運と馬の神社として知られている京都伏見区深草にある藤森神社で、その東殿に天武天皇との二柱として御祭神とされている。

天平宝字三年(759)、藤尾(伏見稲荷大社の社地)に建てられた藤尾社を元としており、この年には舎人天皇の息子である大炊王が淳仁天皇として即位されている。

藤森神社の本殿には神功皇后、素戔鳴命ほか五神を御祭神としており、この神社は五月五日のかけ馬神事、武者人形を飾る端午の節句の発祥の地としても知られている。

お稲荷さん(イネナリ)の社地に祀られていた舎人親王は五穀豊穣を祈る「大炊領」とも浅からぬ縁があったのかもしれない。

不知火海天草に浮かぶ島に「御所浦町」と呼ばれている地区がある。

ここではあの壇ノ浦で非業の死を遂げたと言われている安徳天皇が、九州の武将原田氏に案内され、ここまで落ち延びて来て、ここで亡くなったのであるという。

源氏の追手を逃れるためにか、「近衛殿」と墓所に記されていて、墓石には特に何も刻まれていないが、島民はここが安徳天皇の陵墓であると語り継いでいる。

このように全国で「御所」と呼ばれているその他地域(奈良市・横須賀市・金沢市・長野市)には「大炊寮」からの説と「皇神宮」からの説とがあるが、尾道の「御所町」が「御所町」と呼ばれる由来はどうもはっきりしないが「大炊寮」からの説の方がやや有力のようである。

注1 師(もろ)守記(もりき)
南北朝時代の暦応二年(1339)から応安七年(1374)、公家の中原師守の日記である。中原氏は代々外記(律令制において朝廷組織の太政官に属し詔勅の草庵の添削や奏文の作成、儀式の執行などを司る部署)を世襲した家柄である。外記に就任する前は大炊頭にあり大炊寮領を統冶していた。大炊寮を中心とした出来事に関する記述も多い。

注2 大炊寮
煮炊きの文字から示されるように日本各地の所領地から宮中での飲食、とりわけ神仏へ奉られる供物や宴席の飲食等を管掌した部署。

注3 備後経済レポート
人・モノ・コトをつないで地域経済の活性化に貢献することをモットーに高いクオリティーの情報と紙面づくりに努められている地元の旬刊誌である。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

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春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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