太閤秀吉

文禄元年(1592)三月二十六日、秀吉は明の征服という自らの壮大な夢の実現のため肥前名護屋に向けて艶(あで)やかな行装で京(聚(じゅ)楽第(らくだい))を出発した。

秀吉はあえて海路を避け、陸路で山陽道を西に下った。

兵庫、明石、姫路、網干、赤穂、片上、岡山、矢掛と泊まりを重ね、四月七日、毛利領内の備後の神辺の宿舎に到着した。

翌日は市村から仏通寺越えで、新(にい)高山(たかやま)城へと進む予定であったが、御調八幡宮の八幡町(三原市八幡町)野串のあたりに河野水軍の残党が待ち伏せをしているとの情報が入り、急遽予定を変更して、今津(福山市今津)より西村、三成村、白江村、本郷村、中野村、深村、山中村を通って三原へと抜けた。

途中、藤井川沿いの三成村に着いた秀吉は三成八幡宮の社家で休息をとった。

そしてこの日は小早川隆景の居城である三原城で宿をとった。

翌日には備後一宮である御調八幡宮に出向き、戦勝祈願の桜の苗を自らの手で植樹している。

前年、秀吉は全国の武将に征韓の号令を発しており、西国の雄である毛利輝元にも毛利軍を主力として朝鮮に渡ることを厳命していた。その為、毛利輝元は三万の兵を率いて毛利軍の総大将として布陣していた。

又、叔父の小早川隆景も一万の兵力を召集されており、毛利領の兵力を根こそぎにせんとばかりの大動員であった。

このため毛利領内の津々浦々から船頭や水夫が集められ、海を渡れそうな船はことごとく借り上げられた。

それでも足りず各地で船作りが行われた。

秀吉の御座船となる日本丸の建造も行われた。
この日本丸は、十八畳敷きの座敷が三つもあり、船内で能が上演できる程の大船であった。

現在、この日本丸の一部が舟廊下として琵琶湖に浮かぶ竹生島に残っている。

又、京都高台寺の開山堂にも御座船の天井であったと言う格天井がはめ込まれている。

これらは輝元の命を受けた御用商人渋谷家(大西屋)が普請奉行となって段取りをつけ、武器・弾薬等の軍需調達や朝鮮への輸送に持ち船で船団を組んで参加している。

毛利の負担はこれだけでなく、諸大名が西下する為の毛利領内の道路や橋の普請、又、秀吉の道すがらの休憩所となる御茶屋も設けなければならなかった。

四月七日、神辺の宿所から秀吉は毛利輝元宛に「毛利領内の宿所は普請、饗応共にあまりに入念で痛み入った。

これ程までにされなくてもよいのに云々」と満足の意を伝えている。

秀吉は到着の数日前に「他国者を国内に滞在させてはならない。但し、確かな証人が居れば、他国者であってもこの辺りに居住している理由と、どのぐらい居住しているかなどを明らかにして、この者は決して怪しい者でない旨を誓紙血判して、その証文を本人に渡しておくように。但し、昨年七月以降居住の者は滞在を許さぬ。」との触書を出している。

あの大気者と言われた男が、すっかり神経質になっている。

この後(あと)の慶長三年(1599)三月十五日、秀吉は醍醐寺の西大門から槍山(やりやま)(女人堂から山上に登る参道の途中の平地)までの参道両側に近江、大和、山城、河内の畿内にあった桜の木約七百本を移植させ、北政所、西の丸殿(淀殿)、松の丸殿、三の丸殿、加賀殿、前田利家の正室まつ、他は大名の妻、城に仕える女中など女性のみ総勢千三百人を従えた花見の宴席を設けた。

女性には三着の着物を送り、二回の着替えを命じたという。
現在のお金で約四十億円程の醍醐の花見である。

男性は秀吉、秀頼、前田利家の三人のみであった。

この時にも寺は竹矢来で町衆は一人も寺内に入れず、暗殺を恐れ、五十町四方にわたって槍や鉄砲を持った警護衆を四方八方に配置しての花見であった。

名護屋城天守台跡

ところが遡ること、天正十五年(1587)、秀吉によって催(もよお)された北野大茶会での触書は

「茶湯執心とあらば、若党、町人、百姓巳下(いげ)(以下)によらず釜一つ、釣瓶(つるべ)一つ、吞物一つでもよい。茶のない者は、焦(こ)がし(はったい粉)にても苦しゅうない。持参すべし」

「日本の事は申すに及ばず、いやしくも数寄の心がけある者、唐国の者までもまかり出よ」

「このたびまかり出ない者は、今後、こがしを点てることも無用である。まかり出ない者の所へ参ることも無用と心得よ」

と書かれ、北野天満宮の境内に茶室八百余りが建ち並び、茶席は千五百席にも及んだとも言われている。

秀吉の茶室は組立て式の黄金の茶室で、秀吉のお手前を受けることが出来るくじとりが一般庶民にも許され、一番くじが秀吉、二番くじが千利休、三番くじが津田宗及であった。

秀吉の突き抜けるようなO型らしい明るい性格が出ていていかにも華やかで楽しそうである。それにしても随分の変わりようである。

秀吉は西国路を物々しい警戒の中で通過し、海峡を渡って四月二十五日名護屋に着いた。

名護屋城は玄海灘に面した東松浦半島に、十七万㎡もの敷地の中に五層七階の天守を据え、外壁は真っ白な漆喰塗。

飾り屋根の破風や、軒丸瓦などに限定されているが金箔瓦を使って、海上から見た天守の豪華さを意識して演出していた。

周辺には百三十以上もの大名の陣屋がひしめいており、約三十万の将兵が集められ、人口二〇万人を超える城下町を出現させた。

五月十六日、一か月足らずで漢城陥落の知らせが届いた。
秀吉は明への侵攻唐入りもそう遠くはないであろうと、高をくくって在陣中は能に没頭していた。

しかし、秀吉は朝鮮に渡海出来ずに足止めを食った。

明の進軍と共に戦いの潮目が変わっていた。

海戦では九鬼水軍(九鬼嘉隆)が戦力の核となっていたが、これまで水に縁の無かった脇坂安冶(わきさかやすはる)や藤堂(とうどう)高虎(たかとら)が船奉行となり、朝鮮水軍を率いていた戦略家の李舜臣(イスンシン)との海戦を指揮しているようでは、秀吉の側に海戦での勝利がおぼつかないことははっきりしていた。

攻撃力・防御力などに優れている面もあるが、総矢倉形式の日本水軍の軍船である安宅船に対して、船の覆板を亀の背中の様に装甲し、船内には大砲を備えた朝鮮水軍の誇る亀甲船の反撃に海上戦での敗北を重ねていった。

制海権を奪い返され、朝鮮半島への武器や食料の補給が困難となり、完全に当初の勢いが止まった。

こんなことも見込んで日本最大の海賊と言われた村上海賊の大将の村上武吉にはいろいろな懐柔策を弄して味方に引き入れようと調略を仕掛けてきたが、武吉はどうしても秀吉に靡(なび)こうとはしなかった。

秀吉は八方の敵をも対峙するという村上武吉がこの戦いに加わっておればと苦々しく思っていた。

そうした中、七月十八日、秀吉は母大政所が重態に瀕したとの報告が入り、急遽、京都に引き返すことにした。

秀吉は是より先、天正十六年(1588)、大政所の病気平癒を祈願した時、ご祈祷料で伏見稲荷大社(京都市伏見区深草)の楼門を建立しており、その時の秀吉の願文は「母の命を三年、だめなら二年、それがだめなら三十日の延命を」としたためて、稲荷大社の御加護を祈願していた。

元々大政所は体力があるほうでなく、以前から秀吉の頭痛の種であった。

七月十九日朝、帰りを急ぐ秀吉の御座船日本丸が、潮の流れの激しくて船乗り達が恐れていた大里の沖の死ノ瀬と呼ばれる暗礁に乗り上げてしまい、あわや沈没かという中で、秀吉は命からがらやっとのおもいで救助された。

その時日本丸の船頭をしていた石井与次兵衛は後にその責任をとって切腹して果てているが、この石井与次兵衛が天正五年(1577)三月十三日に航海の安全祈願にと奉納した騄(りょく)毛(げ)(黒・雄馬)と戧(そう)毛(げ)(白・雌馬)の二枚の絵馬が尾道の浄土寺に残されている。

(現在この絵馬は浄土寺宝物殿に収納されている)その絵馬の黒馬は首を上げ、白馬は首を伏せて切杭に繋がれた綱を力一杯引っ張る姿を抑揚ある鋭い描線や隈取り(遠近や凸凹を表すために色をぼかす技法)を用いて立体感を豊かに表現し、大変勢いのある絵馬となっている。

この為、この馬が夜な夜な額を抜け出して本堂内を駆けまわったため、これはまずいと綱は後で書き添えたとの話も残っている程、力感のある絵馬である。

播州明石郡船上(ふなげ)(兵庫県明石市船上町)の住人であった石井与次兵衛は播州沖一帯に勢力を張っていた播州海賊の一人で、天正八年(1580)頃、秀吉の中国進出に伴い、その幕下に加わり、秀吉の四国出兵の時も、島津攻めの時も参陣して秀吉の信頼も殊の外厚かったと言う。

尾道の浄土寺の観音信仰の霊験のあらたかさが遠く明石にまで轟いていることからも当時の瀬戸内海の海上交通の繋がりと、尾道の港と町の活況さを伺い知ることが出来る。

帰路も秀吉は陸路を採用している。

この当時、秀吉は村上海賊を含め瀬戸内海の水軍・海賊は全て手中に収めていたが、瀬戸内海ではまだ秀吉に恨みを持つ海賊の残党が何時襲ってくるとも知れなかった。

柳水井戸跡(尾道市長江)

瀬戸内海の航行だけでなく、海戦となれば瀬戸内海の海を精通している方が圧倒的に有利になることは明らかである。

秀吉は九州肥前の本営から深江、名島、芦屋、長門、山中、花岡、小方、広島、西条、三原と宿泊して尾道に着いた。

尾道では笠岡屋に宿を取った。

当時、尾道では毛利支配下の御用商人として笠岡屋(小川家)、泉屋(葛西家)が、年貢の取立てを代行するなど毛利氏に代わって町の実権を握っていた。

天正十六年(1588)七月、秀吉が出した海賊取締令である「海で自由に生きてきた者達の調査」や「海賊をしない旨の誓約書の提出」等の実務も彼らによって取り纏められていた。

毛利氏は文禄四年(1595)に笠岡屋と泉屋を御調郡を支配する代官にも任じている。

尾道志稿によると文化十三年(1816)、笠岡屋には、その時秀吉が着座した「御座の間」が残っており、上段、上々段の間には狩野永徳の襖絵があったと言う。

今の尾道の本通りから米場通りまで続く大構えであった。

江戸時代には石見銀山から尾道に運ばれてきた銀を大阪に向け出帆する船に積み込むまでこの笠岡屋の蔵で保管している。

現在も江戸時代の蔵の基礎の一部が小川小路と呼ばれている路地に沿って残っている。

又、家主は違うが笠岡屋の屋敷で使われていたという太い梁が、本通りに面した屋敷跡地にある住宅の玄関入口にモニュメントとして使われている。

笠岡屋では二代目当主・小川又左衛門が長江(尾道市長江一丁目)に湧く当時尾道で最も美味であったと言う清水を汲んで茶を秀吉に献じている。

豊国神社唐門(京都市東山区茶屋町)

その井戸は後年「柳(りゅう)水(すい)」と名づけられているが、この「柳水」の井戸跡は、現在も残っており、頼山陽の高弟であった尾道の宮原節庵の筆になる「柳水」の由緒書(銘板・石材)が取り付けられている。

由緒書の文字は風雨に当たって殆んど読めなくなっているが、「文禄の役の際、肥前名護屋城にいた太閤が東上するに及んで、尾道の小川某なる者から接待を受けた際、この美味しい井戸の水を飲食に使った。

そのような 事があった事を後の人に知ってもらうために記す」と言った意味のことが書かれている。

(但し、この由緒書は幕末の学者宇都宮(うつのみや)龍山(りゅうざん)との説もある) 残念ながら、今はこの水を飲料水として用いることは出来ない。

次の日、小川又左衛門は秀吉の警備を兼ねて毛利の所領の東の境であった神辺まで随行して見送った。

笠岡屋のもてなしが気に入ったのか秀吉は、礼の品物を又左衛門に手渡しただけでなく、お供の者達にまで銀銭を自ら手渡して、謝意を表している。

秀吉が人たらしと言われる所以はこうしたところにあるのであろう。

更に、その日又左衛門が乗ってきた馬を秀吉は大層気に入り、所望したので、又左衛門は秀吉にその馬も献上している。

その後、秀吉は矢掛、岡山、赤穂、明石と宿をとって帰京した。「今生でひと目会いたい」と念じて上洛を急いできたが、願いもむなしく既に母大政所は聚楽第で亡くなっていた。

母の死に秀吉はその場で動転してしまうほどの衝撃であった。

秀吉の身を案じて渡海をやめるよう母に懇願され、秀吉はそれを無碍には出来ず、出兵を一年延期していたほどであった。

深い悲しみの中葬儀は大徳寺で執り行われた。

その後、戦いは小早川隆景等の活躍により明との講和交渉ということに至ったが、講和はならなかった。

もはや後には引けない秀吉は慶長二年十月一日、朝鮮南四道を奪うことを目的として、名護屋に向け出発した。

慶長の役である。
こうして又、約十四万もの軍が再び海を渡ることとなった。

秀吉はこの侵略戦争により豊臣政権の屋台骨をゆるがせただけでなく、自身も慶長三年(1598)九月十八日伏見城で亡くなった。享年六十一歳であった。

その遺体は京都東山の阿弥陀ケ峰に葬られ、翌年には壮大な社殿がその山腹に創建され、豊国(とよくみ)大明神(だいみょうじん)の神号を賜っている。

神となった秀吉の豊国神社の豪華な唐門は伏見城の遺構と伝えられていて国宝であるが、この神社の東側にあった東大寺をも凌ぐと言われていた巨大な大仏殿は現在雑草の中に礎石だけがむなしく残されている。

この大仏殿を始め、名護屋城、聚楽第、大坂城、伏見城と秀吉が心血を注いだ豪華壮麗な建造物は全て現存していない。

華やかな彼の人生の儚(はかな)さが伝わってくる。

「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」天下人にまで上り詰めた秀吉の辞世の句である。

PF
伝承によれば、文禄慶長の役に水(か)主(こ)として従軍した尾道の漁業関係者は約六十人で、このうち戦病死した者は十七人であると言われている。

その遺族の生活を保障するため、秀吉が「晩寄り(ばんより)」(獲った魚を市場や魚屋を介さず直接販売する権利を持つ)と言うお墨付きを交付したことから、今も市内には「晩寄りさん」と呼ばれている女性が手押し車を使って露店(路上)で鮮魚を商う尾道特有の行商風景が見られる。

尾道に来たら訪れて欲しい観光スポット

尾道の観光スポット

春夏秋冬。季節ごとに尾道は様々な顔を見せてくれます。

歴史的な名所を訪れるのも良し、ゆっくりと街並みを歩きながら心穏やかな時間を過ごすのも良し、美味しい食事を心ゆくまで楽しむも良し。

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